手を振ればせつなさは手にあふれきてしづかにこの手戻して歩む

近藤寿美子 『桜蘂』短歌研究社 2019年

 

研ぎ戻した磨きのある歌。たまゆらにゆれうごく心情を巧みに助詞をはめ込みつつ、言葉をそっと繋ぎながらこの上なく繊細に表現している。「手を振れば切なさは手にあふれきて」までの三句のなかに「を」「ば」「は」「に」「て」と実に5つもの助詞が使われている。このように助詞でつないでいくことで、時間の経過とそれに沿った心の動きがまざまざと浮かび上がってくる。しかも初句で提示された手は、姿を消すどころか、読み下すにしたがってその存在感を増している。手にまるでこころが宿るかのように、いやむしろ、手そのものが主体から遊離して別個に存在しているかのような身体感覚が伝わってくる。「この手戻して歩む」とまるで他者のように自らの手をいう時、主体はどこかに浮遊している。

この歌に詠まれているモチーフは、「別れのせつなさ」といえるだろうが、それだけではないこの主体の世界からの隔絶感、あるいは喪失感のようなものが一首全体をおおっている気がする。その独自な感覚がこの歌を妙に生々しいものとして印象づけている。

 

送られて駅まで来たり「また」といふ曖昧な言葉ゆふやみに置く

忘れゆくこと易からず六輌のうちの二輌が切り離されても

いくたびも電柱の影過(よぎ)りゆき車窓にながく陽は続かざり

県境の看板ひかり立つ岸辺、みづにあちらもこちらもなくて

 

冒頭にあげた歌の前後に並ぶ歌を引いてみた。どの歌にも悔いのような憂愁の霧がおおっている。1首目、「また」という言葉がまるで重さをもって実在するかのような手触りで描かれている。言葉は発語されたことで、主体から切り離されたかのように頼りなげである。

2首目、上句の心情に対して下句は景として置かれているのだが、喩の領域をはるかに侵して心情の痛みを形象化しているように思える。しかも言葉はあくまでも平明で、無理強いがない。卓抜な歌だ。3首目はとくに注目した。車窓を過ぎてゆく電信柱を見ている、まずは視線が電信柱という殺風景なものにゆく。当然それは過ぎ去ってゆくが、さらに下句に到っては陽ざしもまた時間とともに消されてゆく。ここでも外界との疎遠な感覚だけが周囲の描写によって浮き彫りにされている。4首目、下句の投げ出したような口調には空虚さがただよい、しかも水のひろがりが美しく眼前に広がってくる。

 

歌集全体をおおう世界への違和感、あるいは諦念に満ちた深い認識が主体の存在感を際立たせている。しかも言葉は簡素に洗練されていて、静かな叙情を醸している。ノイズを拾うのではなく、内面の深い肉声に丁寧にかたちを与えることで表現が達成されている。想念を孕みつつストイックで端正な文体が可能であることに強い羨望をもった。