人間の壊れ方にもいろいろとあるがわたしはひび割れている

松木秀『RERA』(2010)

 

 即物的で、従来の短歌の湿った部分をなるべく排除しようとしつつ、それでも残る抒情を大切にしようとしている作者。

 

 人間には、「にんげん」「ニンゲン」と表記する選択肢もある。それを「人間」としたところに、一つ目の反抒情が見える。

 「あるが」という散文脈に二つ目の反抒情が見える。

 口語脈がすなわち反抒情というわけではない。が、いかにもぶっきらぼうでそっけない物言いである。それは、従来の文語の助動詞のしっとりした情感の良さを排して、新しい短歌のあり方をさぐりたいという積極性の表れだろう。

 

 この一首、意味は明確である。

 人間は様々な方法で壊れる。

 ひび割れる人もいれば、膝を折ってガクリと倒れる人もいる。外見はふつうに見えて内部から溶けだしている人もいるし、頭から砂の城が崩れるように崩れる人もいるだろう。

 そのあたりは、比喩創造のおもしろさがある。

 ただし、現代、多くの人が精神的に肉体的に壊れている。それが前提。自分だけは壊れていないというのは傲慢である。だれでも壊れる。いや、すでに壊れているかもしれない。

 

 作者は、自分で気がついて自分の壊れ方を冷静に分析している。そういう壊れ方もある。

 ただ、壊れはじめている自分を、従来の抒情を持ってあわれむように言えば、かえって嘘くさい。

 作者は、情報過多の現代人が、その情報をどう扱っていいのかわからないでいる。自分のこともわからず、どう現状を変えたらいいのかわからない。ただ、ありのままの姿をニュートラルに描いたのだ。

 そこに新しさはある。

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