久我 田鶴子


この沼の底に冥府はあるならむ「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」の声

水上比呂美 『青曼珠沙華』 柊書房 2020年

 

暗いところを覗き込む。見えない底を見ようとする。それは、人間が持っている習性なのかもしれない。

この歌で覗き込んでいる沼も底が見えない。見えないけれど、この沼の底に冥府はあるだろうという。それは、なにやら確信に近いような想像である。「冥府」は「冥土」、死者の霊魂が行く世界だ。沼を覗きながら、深く〈死〉に接近する。こういう時間は危険だ。〈死〉に引き込まれてしまうかもしれない。

そこに聞こえる声。

「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」は、『伊勢物語』の「東下り」で、都を離れて隅田川まではるばるやって来た在原業平の一行が〝限りなく遠くも来にけるかな〟と嘆いているところに渡し守が言った言葉である。「はやく舟に乗りなさい、日も暮れてしまいましたよ」という渡し守の言葉は、川のほとりで都や都に残してきた人を思っては嘆いていた一行を現実に引き戻す契機になったことだろう。

その声が今、沼を覗き込んでいる者の上にも聞こえてくる。ここでも「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」は、〈死〉に引き込まれそうになっていた者を現実に引き戻す契機になったのかもしれない。

あるいは、三途の川の渡し守の声と聞こえたか。もしそうであったなら、いよいよ〈死〉の世界に誘い込まれてしまいそうだが……。

物語の世界と交錯しながら、歌はこちらの想像力を引き出し、そこでしばらく遊ばせてくれるようである。