母死なせ生きのびしわれ死にしわれ寄り添ひて立つ自販機の前

川野 里子 『歓待』 砂子屋書房 2019年

 

母を死なせて生きのびた「われ」。そこには、母の死とともに死んでしまった「われ」もいて、寄り添って自販機の前に立っているという。

何か飲み物でもと思って、自販機の前に来たのだろうか。母の死後、ようやく一人になれた時間だったのかもしれない。張り詰めていたものが緩んで、自分のことも少しは考えられるようになったとき、母の死とともに自分の中の何かが失われてしまったことも知ったのだろう。自販機という四角い機械の前に、呆然とたたずむ作者の姿が目に浮かぶようだ。

 

レントゲン当てられしばし息とめてゐるなり明日死ぬ母が

母死なすことを決めたるわがあたま気づけば母が撫でてゐるなり

袖口の汚れしコート着てをればその袖口を哀しめり母

 

これらの歌は、死を前にした母の姿である。生の終わりが近づいているなかで、命はこんなにも健気に生きようとしている。

レントゲン撮影にしたがって、素直にしばらく息を止めている母。延命はしないと決められたとも知らず、その娘の頭を撫でている母。娘の着ているコートの袖口の汚れを哀れがる母。

こうした母の姿を歌にとどめながら、娘は母の最後の姿を愛おしんでいる。この世にあって、母と娘の時間がこのときに浄化されていったようでもある。

 

間違ひとは思はねど母の生き方のすり減るやうな丸さが嫌ひ

ああそこに母を座らせ置き去りにしてよきやうな春、石舞台

全方位晴れてゐる冬「さよなら」と言はれてをりぬ「またね」と言へば

 

娘にとって母は、最も身近なところにいる同性だから、生き方の手本ともなれば、時には厳しい批判の対象ともなる。作者の場合には、自分の生き方の手本とはなり得ず、母に対して厳しい見方をしてしまうこともあったのだろう。千葉と九州とを往復する、長い介護の時間のなかでも、寂しい思いや辛い思いをお互いにしたりさせたりすることもあっただろう。

だが、最後に見せてくれた母の姿は、それまでのすべてを清らかで温かいものに変えてくれたのではなかったか。母が、その死によって娘に残してくれたもの。「母死なせ生きのびしわれ死にしわれ」には、涙を堪えながら、こころの奥で深く納得している声の響きがある。

 

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