永井 祐


波立ててたかむらを吹く春の風光りかがやく竹の葉竹の幹

土屋文明『自流泉』

 

昭和二十二年作。
疎開先の群馬県川戸での歌。土屋文明はこの場所で昭和二十年の敗戦を迎えてそれから5年以上住み続ける。
この歌を読む上でそんなにいらない情報かと思いますが、土屋文明のことを調べていると、この川戸での期間はとても重要で、わたしなどの場合でも、このへんの歌は特にいいように感じます。
すでに五十代後半で、現実的に深刻なダメージを受けて、そのうえで作品では生涯の上で重要なピークを迎える。いい話、というのでもないですが、「そういうことあるんだな」みたいなね。何か感じるものがある。

今日の歌、たぶん今見ればけっこう地味に見えるかと思うんですが、
読んでこつんと当たるところは、「竹の葉竹の幹」ではないでしょうか。
そこまでおだやかで順当に進んでいた歌が、ここで少しトーンが変わる。
「竹の葉竹の幹」って普通に考えてもちょっと変な言い方で、そして音韻的にも57579になっている。結句だけ9音になるのはそれなりにめずらしいと思う。ここを7音に丸めて全体と調和するように直すことはたぶん簡単にできるはず。

はじめから読むと、「波立てて」は竹林が風にさやぐような様子を言っているのだと思う。そして「~春の風」で一回切れて、あらためて春の光に輝いている竹のことを言う。竹の細かい葉が光を弾いていて、その特徴的な幹も光を受けて輝いている。
全体はこんな感じかと思います。

そのうえで、わたしの印象になりますが、「竹の葉竹の幹」には、それを改めてつかみ直すようなニュアンスがあるのかと思います。
そもそも「竹むらを吹く」なので、竹であることはわかっている。それを上句と重複するように「竹の~竹の~」ともう一回言っていく。
はじめの「竹むら」だと漠然とした絵だったものが、「竹の葉竹の幹」と一つずつ言い直していくことで、具体的で生気を持ったものとしてあらわれてくる。そういう違和感がこのちょっとぎこちないような言い方になり、リズムの揺れとして出てくる。
極端に言えば、竹の葉、竹の幹に対して、ヘレン・ケラーの「ウォーター!」みたいな感動があるんだと思うんですよね。
少し進み過ぎかもしれませんが、こういう世界のつかみ直しのような志向を、この時期の文明の歌には感じます。

 

丸くなり静かに動く白雲もこの谷こめし春霞の中

 

同じ歌集の歌ですが、こちらには「丸くなり」に特に感触と違和感があるように思います。何か意外なんですよね。ここで「丸くなり」と出てくるのが。そしてこの部分がとても生気を持って見える。