最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

斎藤茂吉『白き山』

 

以前、短歌をやっている人たちの飲みの席で「ワースト名歌」という遊びに遭遇したことがあります。
名作とされているけれど、自分はそうは思わない作品をあげて話すというもので、
わたしは上手いこと言えなかったけど、人のワースト名歌を聞いているのはとても面白かった。
それで今日の歌、「逆白波」は教科書などにもよく載っている作品ですが、この歌に対するディスで一番面白くて詳しかったものをちょっと紹介します。

先に基本的なことを。この歌は昭和21年の作品で、歌集『白き山』に収録。斎藤茂吉の後期の作品の代表的なもの。終戦の翌年で、疎開先の山形県で作っているものです。敗戦で傷ついた心をもって故郷の山河を詠むという物語がこの歌のまわりにはあると思いますが、それはちょっと置いておきます。

歌意はシンプルかと思います。「逆白波」は吹雪がすごくて、白い逆波が立っているということ。下の引用がそのディスです。ワースト名歌スピーチ。

 

わたしなど、まず、不愉快に感ずるのは、一首の構造の中で、三句の「までに」のはたらきが、あやふやなことである。意味としては「ふぶく」にかかるのだろうが、「逆白波のたつまでにふぶく、ゆふべとなりにけるかも」では調子をなさない。どうしても「までに」で一たん休止すべきである。そうすると、「までに」は「(ゆふべと)なる」にかからざるを得まい。

(略)

結果として、こういうことが起った。「ふぶく」という語の形象喚起性が微弱なのである。逆白波がたっていることは眼前にうかぶが、それと、吹雪の景観が融合してこないのである。

「逆白波」という造語の効果が、多くの読者をひきつけるようである。それが好きでたまらぬという人はそれで良かろう。これは好みの問題だが、わたしはこの造語がどうしても好きになれぬ。「さかしら」と音が通ずるのが嫌である。

悪口ばかり言うようだが、けっきょく「なりにけるかも」も硬化した形式を感じさせる。無内容なところを、形式の力で誤間化ごまかしたような感じがする。

(玉城徹『茂吉の方法』)

 

これ、ロジカルなうえに「不愉快」とか「嫌」が入っていて熱いと思います。
そして「までに」が雑だから「ふぶく」が生きてないじゃんというのも、そんなこと思ったことなかったけど、けっこうなるほどと思う。逆白波と吹雪の景観が融合してこないとありますが、その線で極端に言えば、上句と下句で別の景に見える。

わたしなどは、この歌はなんとなく外国の景みたいに見えます。広い暗闇の空間に吹雪が吹き荒れる感じっていうのが、日本の川のイメージにならないというか。あえて話をつなげてみれば、これも下句が上句から遊離しているせいでそんな風に感じるのかもしれない。まあ、吹雪の最上川を見たことないですが。

長くなってきたので一回切ります。次回は擁護論のほうも紹介してみようと思います。

 

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