つるつるに頭を剃っておりますが僧の中身は誰も知らない

大下一真『即今』(2008年)

 

 

「僧の中身」を、誰も知っているとは思っていない、と思いかけて、ああ、でもあの姿を目にするとき、その内面を斟酌することを、どこか遠ざけているところがある、と気づく。
そして、この軽い、ひらべったいうたいぶりの奥に隠されたものの、意外な深さを思ってみる。

 

ここにうたわれているのは、修行に没頭するというより、もっと世間にまみれたところで、仕事をしている僧の思いだろう。
すべて覚悟の上、自分から世間に対して線をひいたとはいえ、その日々における、時々の心情は複雑に揺れるだろう。こもって修行に励む場合とは、異なる困難があるはずだ。 なんというか、何かとすっきりいかぬだろう。曖昧さに耐えねばならぬことも多いと思われる。

 

 

小学校の時、お坊さんでもある先生がいた。いつもニコニコした丸顔の先生は、わたしたちの前ではスーツ姿だったが、放課後は、衣の裾をばたばたさせてスクーターに乗っていた。その姿をふっと思い出したりする。

 

くだけたうたい方によって、むしろ一般社会の中での、僧という立場にある人の孤独をさまざまに思わせるところがある。

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