なんでも麻雀で喩えたがるならこのドッグランも ETERNAL

郡司和斗「犬の話」『くくるす』創刊号,2022.07

 

「なんでも麻雀で喩え」るというのは、「役満」とか「テンパる」とかのことでしょうか。

前に所属していた研究室では、勉強会のあとに雀荘へ行くのがほぼお決まりのコースで、わたしも先輩たちについてゆきたい一心で、必死に麻雀のルールを覚えたものです。

彼らが真面目な(研究の)会話に麻雀のタームを織り交ぜるとき、そこには見えない雀卓を囲む場が設けられて、架空のゲームが始まっているように見えたから。

今日の歌は「麻雀」、「ドッグラン」、「ETERNAL」と、それぞれがまったく別の要素でありながらも、「見えない雀卓を囲む」ような〈円環〉の動きを抱えている、とも読むことができそうです。

 

全体をつつむ不思議な多幸感があって、これは「ドッグラン」のおかげでしょうか。

たくさんの犬いぬが、もっとも生き生きとした表情を見せる場所のひとつ。心から楽しそうに、駆けたり、じゃれ合ったり、甘えたりしている、天国のような場所。そして、そこはもちろん、にんげんにとってのユートピアとはまた別の次元で存在している。

かなり迎えに行って読むと、にんげんであるわたしたちの言葉で、その「別の次元」を視覚的に表したものが、「ドッグランも ETERNAL」のあべこべな表記なのかもしれません。

 

また、この「ETERNAL」は、こうして横書きの引用だと文体になじんで見えるけれど、もともとの半角英字の縦書きだとすごく異様。

一首の中でも「ドッグラン」までの第一の語り手と、「ETERNAL」とつぶやく第二の語り手は別人のようですが、縦書きでの引用と横書きでのそれとでも、歌の顔つきががらりと変化するのです。

(日本語の縦書き・横書きについては以前、朝日新聞の「耕論」欄にお話をしたことがありましたので、わたしの感ずるところのたとえとしてリンクを貼ります)

 

この歌は何かを言いさしている。「ドッグランも」の「も」にこそ宿る、その複数形の予感をともなって、あらゆる場の永遠性を希う歌なのかな、とも感じました。最後のこの読みはなんだか安牌ですが。

 

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