馬場あき子「木々の沈黙」『短歌研究』,2022.01
もうすっかり紅葉の季節。ずいぶん前に見かけて、ずっとこころに残っていた一首を。
「木の思ひ」から始まる、やや不可思議な歌いだし。
さらにつづいて差し出される、「恐ろしきまでまつかなる」という、ぞっとさせられるような二句目・三句目。
ここで立ち上がるのは、「木」とその「思ひ」、「まつか」と、まるで極彩色のあふれるような光景。
しかし、ここでその「まつかなる」のかかるものが「葉にあり」と種明かしされることで、
「思ひ」に括られていた「恐ろしきまでまつか」という、言ってしまうとある種おどろおどろしいようにも取れる光景が、一気にミクロなものへと集約されます。
「木」に漲っていた「恐ろしきまでまつかなる思ひ」というものが、まるで幹を、そして枝を通過して、細部に分散されてゆくよう。
さらに、「ただに散るのみなれど」と、その「恐ろしきまでまつかなる」「思ひ」が、どこにも発散されることなく枯れて散る、地に吸い寄せられてゆくようなつくりになっているのがわかります。
と同時に、紅葉に彩られた樹々という、一見、よく見かける光景から、ふっと異常な画へとシフトする、その瞬間に「まつか」な「葉」がまなうらにはらはらと散るという現象にも驚くでしょう。
それでも孤独に、そこに立ち続けている「木」の異常さを見せつけられたようでもあります。
短歌には七七があるから狂ってしまったのだ、と言ったのは誰だったか、この歌は上の句で強烈な景を指し示しつつ、下の句で決定的にそれ狂わせているところが、じつに技巧的な一首なのだと感じたのでした。