くちづけにいたらぬとほき恋ありて慈姑(くわゐ)を食めるときに思へる

大辻隆弘『デプス』(2002)

 

 ひっそりとした全体のリズムの中に、「慈姑」という具体が重く座っている感じがいい。一つの名刺が世界の中心になっている。

 クワイは、東京だとよく中華料理に入っている。シャキシャキした白くて丸い食べ物(スライスされている?)。

 だが、おせち料理の煮物に使われるものとは違うようだ。

 この歌の場合はどちらだろう。正月に限定されるのもよくないと思う。

 

 それはともかく、「くちづけにいたらぬとほき恋」がいい。

 いつごろのことだったのだろうか。一方的な恋だったのか、両者が近づきつつあった途中で消えたのか。

 だれにでもある感情かもしれないが、それを「恋」と名付けて大切にしておくのは、人生を豊かにしてくれるだろう。

 

 そういう「恋」をなぜかクワイを食べるときに思いだすという。

 それも「ありて」と軽く言葉を翻しながらつなげてゆくところが巧みである。

 人間の記憶を呼び覚ます感覚は嗅覚が一番強いという。食べ物の記憶も強いのかもしれない。

 ただ、この歌では、クワイを食べたときにその「恋」の相手がいたとは言っていない。相手の女性が、クワイのような食感だとか色形だとか思っているだけかもしれない。

 漠然と思っているだけのことがらでありながら、〈慈姑〉という具体によって現実とつながり、引き締まった歌になっている。

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