錠剤を押し出す力の弱ければはるかな岸の鹿を恋うなり

小川佳世子『ジューンベリー』砂子屋書房,2020年

これから飲もうとする錠剤を、プラスチックとアルミで挟んだ包装シートから取り出そうとしている状況だろう。「弱ければ」とあるので、指に力が入らずに難渋している。歌集には病を詠った歌が多く収録されており、「弱ければ」はこの瞬間の偶発的なことというよりは、恒常的な力の入らなさだと思われる。

情景がイメージしやすい上句と下句の間にはずいぶんと飛躍がある。下句で現れるのは「鹿」だ。それも「はるかな岸」にいる「鹿」。
「はるかな」の一語によって「鹿」のいる岸との距離はたどり着けない遠さに規定される。岸にいる鹿なので、奈良公園や動物園の檻の中にいる鹿ではなくて、もっと自然の中に棲んでいる野生味の強い鹿を想像する。

錠剤を押し出すのに難渋する主体と大自然の中を生き抜いている「鹿」には対比があるし、「恋うなり」という結語によって、鹿的なものを希求している主体も浮かび上がる。
こうやって評文を書くと、理屈を通しても読めるように感じてしまうのだけれど、一首を読んだ時に理屈めいた印象は薄い。シートから錠剤を押し出そうとしたその瞬間に、鹿の姿が思い浮かび、「恋う」としか思えない感情を抱いた、その一連の流れを読者は追体験する。
距離のある上句と下句を無理やり「ば」で接着しているのだけど、四句目は「はるかな」という少しぼやけたはじまり方をするので、唐突感は薄れる。〈弱ければ鹿を恋うなりはるかな岸の〉とでもすれば鹿がクローズアップされ、対比も鮮やかになるが、作為性も増すように思う。「はるかな岸の鹿」の順で登場することで、靄がかかったような岸がまず現れてそこに鹿を見出す、そんなカメラワークで像が結ばれる。

雨音を聞く仕事ならしてもいいどこか遠くの緑の窓で/小川佳世子『水が見ていた』
溢れ出すままにしておく洗面器 この世の果ての全方位滝
イグアスの滝をあなたが見たときにわたしはちょうど吐いていました/小川佳世子『ゆきふる』
台風はみずからの名を知らず過ぎ名のりてのちにそれになる我
川に出る視界は広がり山近くああ晩年を生きているなり/小川佳世子『ジューンベリー』

日常から思考が飛翔する、小川さんのそんな歌が好きだ。一首を読んでいると、思考の跳躍力を追体験できるように感じられる。飛翔先がただ提示されるのではなく、蹴るべき地面の存在がちゃんと感じられるように思う。

「いくつかの臓器は逃してあげたのか やっと開いた花水木見る」(『ゆきふる』)、「食べ物をためるところが無くなって一本の線私の腹は」(『ジューンベリー』)というように、歌集には、特に第二・第三歌集には病のことを詠んだ歌が多くあり、生きるということに深く病は結びついていて、それを力強く歌に昇華する。

そして、そこには、絶えず水の気配が感じられるのだ。

青空にジューンベリーの花の白 今までのすべて号泣したい/小川佳世子『ジューンベリー』

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