われもビールを飲みて観るなり青々と横浜ベイスターズの負けを

梅内美華子『横断歩道ゼブラ・ゾーン
(雁書館、1994)

三十年前の歌集にみつけた、ごらんよビール、これが横浜ベイスターズの負けだよ、という歌である。

岡本真帆の第一歌集『水上バス浅草行き』(ナナロク社、2022)にある「平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビールこれが夏だよ」という歌がよく知られるようになって、SNS上では思い思いの写真とともに「ごらんよビールこれが〇〇だよ」とポストするのが流行している。梅内の歌の「青々と」にはベイスターズのイメージカラーはもちろん球場の芝生や夏の印象が重ねられている。そして「われも」から、まわりの観客たちがビールを飲んでいて、自分もそうした、ということがわかるのだが、「ごらんよビール」の流行の渦中でこれを読むと、三十年前の新人歌人が「われも」と現代に手を伸ばしてきて歌を詠んだかのように楽しめる、奇跡のような一首である。

梅内と岡本の歌をみくらべるとき、前者には横浜ベイスターズという絶妙な具体の出し方、「負け」というサゲ方に、職人的なうまさが光る(万一これが「読売ジャイアンツの勝ちを」だったりしたら0点だ)。一方で岡本作品が、ビールとともに見るのは漠然とした「夏」であり、ここには具体がない。さらに気付くのは、梅内の歌で「横浜ベイスターズの負けを」と主体から外部化されていたマイナス(負け)の要素を、岡本の歌は「平日の明るいうちからビール飲む」というように、うっすらと主体に担わせているということ。もちろんこの歌はわずかにマイナスを帯びた自分自身をがっしり抱きしめるように肯定するところがミソなのだが、もしも岡本の歌が梅内のようにマイナス要素を他者に担わせていたらSNS上でここまで愛唱されることはなかったであろう。今日的なバランスに富んだ歌なのである。

さて『横断歩道』という歌集を考えるとき、「負け」の扱い方には実は重要な意味がある。おなじフィールドには当然勝ったチームもいたはずなのに、負けたチームを見たとわざわざ言うのはなぜか。それは歌の技巧や、作者のひいきのチーム(かどうかは聞いてみなければわからないが)だからという可能性以上の意味があるように思う。

掲出歌は『横断歩道』終盤の「半袖の腕」という一連にあるが、これは野球観戦の連作ではない。ひと夏の思い出のスライドをでたらめに映写していくように場面が次々と変わる。あえて野球に関連付けられる歌を選ぶなら、

大いなる空振りありてこれならばまだ好いていよう五月の男

という掲出歌より四つあとにある一首。掲出歌ではベイスターズという負けた男たち●●の歌であったのが、ここでは不思議と「五月の男」というひとりの男性にすり替えられている。

生き物をかなしと言いてこのわれに寄りかかるなよ 君は男だ
敗北の男の涙を見ていたりヒーター強き映画館にて
恋人であらねばやさしき言葉もて男友達を励ましている
屈折のやさしきところを歌い出す槇原敬之大きなる口

歌集の序盤から後半に出現するこんな歌を順に並べていくと、『横断歩道』という歌集は男の〈負け〉や〈やさしさ〉を受け入れる、もしくはそんな男に惹かれてしまう自分を受け入れる物語であったように思えてくる。それぞれ男は恋人候補のような「きみ」であったり、映画の登場人物であったり、単なる友達であったり、槇原敬之であったりするのだが、自分と〈男〉との関係をさまざまなパターンで見比べながら、その男の弱さややさしさをどう感じるか、自分自身を試し続けているようだ。野球観戦はそんななかで、負けた男たちを何人も同時に見ることのできるまたとない機会だった。ごらんよビール、これが負けた男たちだよと、なぜだかすがすがしく見物したあとで、「大いなる空振り」をしでかした(おそらくは身近な)誰かをまだ好いていよう、そんな気分をようやく認めることができるのだった。

*引用は2in1シリーズ版『横断歩道・若月祭』(雁書館、2002)によった。

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