呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる

 穂村弘『シンジケート』
 (沖積舎、1990)

穂村弘の歌の中でもよく知られるもののひとつだが、『シンジケート』で読むとこの一首だけが前後の連作から引き離され独立し、「桃から生まれた男」という小題がふされている。桃から生まれた——なるほど桃太郎である。これを真に受けて今日の一首を読んでみるのも悪くはない。昔話で桃太郎は、流れついた桃から生まれるとあっというまに青年となり鬼退治へ向かう。圧倒的に省略されたこの空白の十数年には、本当はこの一首のようなひとときもあったはずなのだ。

囲炉裏だろうか、未だ火を知らない桃太郎が、呼吸するように揺れるそれを見ていると、おばあさんが耳打ちをする。ふたりでしばし火を見つめる。しかし「火」とは、いずれ鬼が島に渡り無差別的な暴力をふるうことになる桃太郎の猛々しい心を暗示しているようにも見える。火のような心は、桃太郎の内部にあらかじめ植え付けられ、このときすでに小さく燃え始めていた。おばあさんはそのことに気づいていた。「火よ」のひとことは、つまり、お前は鬼退治をするんだよ、という宿命を語って聞かせているようにも見える。

この一首に似たエピソードを、私たちはよく知っている。井戸から流れ出す水に触ったヘレン・ケラーの、もう片方の手のひらに、サリバン先生がWATERと書いた、ヘレン・ケラーを語るには必ず言及されるあの場面。これが重要なのは、なにもここでヘレン・ケラーが「水」を知ったから、というわけではないだろう。それよりも、名前というものを理解したからなのだと思う。いくらか大げさに言えば、人間の精神と人間の生きる世界とを統合する言葉というものに本当の意味で初めて触れ得た瞬間だったから。

風の夜初めて火をみる猫の目の君がかぶりを振る十二月
だけどわかっていたらできないことがある火の揺りかごに目醒める硝子
噓をつきとおしたままでねむる夜は鳥のかたちのろうそくに火を

『シンジケート』における火は、一義的には、生まれたばかりの子供に似つかわしい無垢さを象徴しているように見える。しかし同時にこれらは、生まれればやがて立ち向かわなければならない世界への入り口としても機能しているようだ。それはヘレン・ケラーにとって、水を知ることが言葉というものへの、ひいては人間の英知への入り口であったのと同じことであろう。

ところが、ここに引いた三首をよくよくみてみると、桃太郎やヘレン・ケラー伝が勧善懲悪や人間的発展の経緯をたどる物語であるようには単純にいきそうもないことに気づく。「かぶりをふる」「だけどわかっていたらできない」「噓をつきとおしたままで」には、「火」つまり世界への入り口を前にして、世界に参画することを拒絶しようとするかのような意志も読みとれないだろうか。世界という厳しい未来を拒絶しながら、無垢の象徴として火を見つめ続ける。どれも何気ない歌のようでいて、ここにはなかなかに巧妙な手口が潜んでいるのだ。

さて、冒頭において、今日の一首を、桃太郎が主人公の歌として私は読んだ。おばあさんとか、囲炉裏とか、『シンジケート』に限ってそんなことがあるかと思った方も多いだろう。その直感はきっと正しい。世界を拒絶し、無垢のほうだけをとり続けようという手口は、おそらくこの歌にもとられるはずだ。「桃から生まれた男」は、今、自分よりも先に生まれ世界というものをよく見知って、自分を守ってくれるにちがいない女性とともに、鬼が島のごとき夢の孤島に過ごしている。「火よ」と言われたとき、この男はむしろ守られているということに恍惚としたにちがいない。

*引用は新装版(講談社、2021)によった。

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