『非在の星』久々湊盈子
歌われている「かたつむり」は、むろん人の内耳にあって聴覚を司る感覚器官の蝸牛管のことである。そうわかっていても、歌の中に収まっている「かたつむり」に生き物の蝸牛を感じてしまうのは、下句の鮮やかな情景表現のためであろう。「朝窓」を打つ「雨」の音がたしかに聞こえてくる。「耳」から歌い起こされて、最後に「雨」の音を聞かせる言葉の流れも心地よく、さらにその雨を聞く「よろこび」が反転して、あたかも耳の奥に「かたつむり」を飼っているような幻想性をもたらしているのである。歌集名にちなんで言えば、非在の「かたつむり」であろう。この歌の近くには「葉隠れにいちじく熟れて列島に湿舌ひたひた伸びてくるなり」という一首もあるが、ここでも「葉隠れ」「湿舌」という言葉や、「熟れて」「伸びて」という動きが、日本の梅雨の情感を新しく塗り直しているようだ。二〇二三年刊行の第十一歌集。