銀縁の眼鏡いっせいに吐き出されビルとは誰のパチンコ台か

松木秀『5メートルほどの果てしなさ』
BookPark2005

定時になって職場を後にする人々の群れをいっているのだろう。都心にある巨大なオフィスビルをイメージする。パチンコ玉に象徴された「銀縁の眼鏡」とは、つまりおそろしく類型化されたホワイトカラーの労働者の姿。ビルの下からその眼鏡をいっせいに吐き出すオフィスビルをパチンコ台にたとえている。こうも毎日毎日職場へ通わねばならないのは、誰かが「ビル」というパチンコ台で遊んでいるからだったのか! パチンコ玉(銀縁の眼鏡)にとってははなはだ迷惑な話である。

遠山の金さんおとり捜査もて打首とせし数千の首
国会は多数決なり議員とは単に数字の1なり、つまり
千羽鶴五百九十四羽めの鶴はとりわけ目立たぬらしい

この三首は掲出歌とは別の一連「無機質な死、そして凡庸な連想と引用」から。とりわけ目立たないという千羽鶴の「五百九十四羽め」なる数字には、それじたい特段の意味はないのだろう。意味がないからこそ「とりわけ」目立たない。そして、あえて根拠のない具体とともにそれを示して見せる松木秀のうたいぶりは、はからずも「とりわけ目立たぬ」その一羽にスポットライトをあててしまう。

掲出歌におけるビルというパチンコ台で遊ぶ誰かと「銀縁の眼鏡」(パチンコ玉)という特殊な主従関係が、ここに引いた三首にも当然のように組み込まれている。つまり、遠山の金さんと、打首にされた罪人たち。作り出されるおびただしい数の折鶴たちとそれを千羽鶴として誰かへ贈ろうという人。罪人の首や折り鶴に並列する、主従関係の〈従〉の側には国会議員も挙げられている。議員という権力者の一種とふだん考えられがちな存在にも、実はそれより上の〈主〉が存在する。この場合の〈主〉にあたるのは、その「数字」で自分たちの政策を実現させようとする政権や与野党の幹部ということになる。しかし、同時にこの歌には、権力者と思っていた議員が「数字の1」に過ぎないことを発見して留飲を下げる大衆のひとりとしての主体(語り手)の存在も感じられる。留飲を下げながら、その「数字の1」を選出するための「一票」にすぎぬ有権者の自分は「数字の1」よりもさらに数万分の1の小さな存在にすぎぬということにも気づいていることだろう。

さて、掲出歌に話を戻すと、この歌の〈主〉、つまりビルというパチンコ台で遊ぶ誰かとは、誰なのか。このスケールの大きさからいえば夕焼とか入道雲とか、そういったスケールのものがパチンコ玉の悲哀など考えもしないぼんやりとした巨人になって遊んでいる。そんなことも考えもする。あるいは、定時というのがひとつのポイントなら、それは「時間」であるともいえるかもしれない。が、本当はここにはきっと、皆ががっかりするような答えが隠されていると思てならないのだ。つまり、誰か、とは、資本主義経済そのもの。つきつめれば経済に参加するすべての人である。つまり会社のオーナー、オフィスビルを建てたデベロッパー、そして、そこには労働をよきものとしてビルに通い続ける「銀縁の眼鏡」たちも残念ながら含まれる。みなが手を取り合って、そのパチンコ台を操っている。

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