小池光『バルサの翼』
(沖積舎、1978)
『バルサの翼』は小池の第一歌集。「故郷」と題された冒頭の一連の、その第一首目が、
父の死後十年 夜のわが卓をあゆみてよぎる黄金虫あり
という歌。私が参照しているのは『現代短歌全集』十六巻であるが、これでみるかぎりこの歌のあとが「〇」で区切られ、「父の死後十年」の歌はなかば独立した扱いをされている。「〇」のあとに今日の掲出歌に始まる花火に関する七首が続く。さらに「〇」があって、今回はふれないが、ひまわりに家族を象徴させる歌が続くことになる。「故郷」という第一歌集の、初めの連作がそういった凝った構成で、全体として亡父と残された「血族」がテーマであるらしい。ふと気づくと目の前の卓上を這っている黄金虫のように、いつのまにか驚くほど小さな存在になって、もはやそれ自体たいした力をもつわけでもない、その気になればいつでも克服できるもののはずが、ときになんらかの価値があるかのように鈍く光りながら、ここにいるぞと主張する、そんな亡父のありよう。
一連は、薄暗く孤独な一室の情景から、血族らが見物をする花火のシーンへと大胆な場面転換を果たす。掲出歌における「花火果て」にはつまり、父が死んだことが象徴されているように思う。あたりを照らした光源がうしなわれ、血族らは闇に覆われながら互いに手を探りあい存在を確認しあう。それを「ゆたかさ」といって、父亡きあとの家族のありようを肯定してみせる。もう少し歌を引いてみよう。
つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり
血族と水の辺にゐるさみしさを花火果てたるのち許しゐき
血はつひに翳りの水か母と子をふところふかき闇へみちびく
ほの白う耳浮かびゐるいくたりを血族といひやがて肯ふ
掲出歌で語られた「闇のゆたかさ」は、ここでも血という言葉を使いながら「ふところ深き闇」とか、闇にぼんやりうかぶ血族らの耳を見ながらその存在を「やがて肯ふ」とか、くりかえし肯定される。ここで「血族」ら(母と子か、もっとおおくいるのか)は、河や湖のような水辺で花火を見ているらしい。「血はついに翳りの水か」というとき、彼ら・彼女らが花火を見物するそばにたたえられた水は、そのまま体内を流れる「血」に接続される。すると先立つ歌の「水のおもてにみづあふれをり」は、一族の歴史が綿々とこれまでも、そしてこれらかも続くということ、さらに父という光源をうしなったことによって、その血を皆でわけあいながら生きていくということをつかのま直視する必要がなくなり、やがてそれを許そうとする心境が訪れたということになろうか。
北の窓ゆつらぬき降りし稲妻にみどり子はうかぶガーゼをまとひ
『バルサの翼』中の別の一連から。闇への親しみによっていちどは克服したはずの亡父の存在感は、一度は消えた花火がつぎつぎ打ち上げられるように、しばしば主体のもとを訪れる。ここでは父と明言されるわけではないが、かつて「水のおもてにみづ」あふれる瞬間を照らし出した花火が今度は稲妻になり替わって主人公の子供を劇的に照らす。血を忘れるなよとばかりに。
*引用は『現代短歌全集』16巻(筑摩書房、2002)によった。