九月十一日、展覧会の内ふかくしずもるゴッホの瞳を思う

『雨の日の回顧展』加藤治郎

 このごろは展覧会で画家の回顧展を気軽に見ることができる。思えば時空をたやすく超えられる不思議な時代である。この一首はそこで見たゴッホの自画像への思いを歌ったもの。「九月十一日」とあるので、この日にちにもゴッホとの関わりがあるかと思ったが、たんに会場を訪れた日であるようだ。ゴッホの死は一八九〇年七月二十九日である。ゴッホの自画像は数多くあるが、ここに歌われている「ゴッホの瞳」はどの絵のものだろう。緑色がかった瞳の暗いゴッホの顔がさまざま思い浮かぶが、いずれにしてもその絵は「内ふかくしずもる」とあるように、周囲の空気をしんと鎮める力と気配をもっていたのだろう。この歌のある「黄色い家」の一連には、「耳」の一首の「ふれたなら幼い耳であるようにとれそうなノブ、ふれたのだろう」もある。ゴッホの耳といえば、狂気の末に切り取った包帯姿の自画像が有名だが、ゴッホにとって「瞳」や「耳」は、過敏で壊れやすい窓であり扉であったと作者はいうのだろう。「幼い耳」と「ノブ」の関係のように、この作者とらえるイメージや幻覚には、断片でありながら強い手触りがある。二〇〇八年刊行。

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