呼び出され雨の画廊に夫と逢ふ不倫めきたるやさしき時間

栗木京子『中庭パティオ
(雁書館、1990)

言ってみればつかのまの逢瀬、なのであるが、その相手は朝にも顔を合わせたばかりの夫である(ここでは「夫」は短歌の慣例として「つま」と読ませるのだろう)。忘れものか、なにか、電話だけでは済まないちょっとした用事が生じたのだろうか、職場からの連絡うけ、主婦であるらしい主人公は嬉々としてでかけていく。待ち合わせ場所は画廊。思いがけない場所で、思いがけないときに会うことのできた夫は、仕事の最中であるせいかなんとなくふだんとは雰囲気がちがった。そのうれしさを云うのに、わざわざ「不倫」という言葉を持ち出して、読者をどきりとさせる。

「観覧車」とか、「さよなら京都」といった超有名歌が収録された『水惑星』(雁書館)の世に出たのは1984年。今日の一首が収録された『中庭』は、その六年後に刊行された第二歌集。いまひとたびこの第一歌集について書くのであれば、『水惑星』には高野公彦による「解説—女の三体—」がふされていた。「三体」はこの集中の

妻となり母となりしも霜月尽 透明にして水の三体

によっている。水の三体とは、氷→水→水蒸気といった、学校で習った用語にいうところの「状態変化」のこと。それをふまえて、高野は言う。「乙女から妻へ、妻から母へ、作者は変つていつた。それは自分で選んだ変化には違ひないが、個の意志を超えたものの力によつてうながされた変化であるとも言へる」。たしかに、『水惑星』を読むと、「観覧車」「さよなら京都」といった珠玉の青春歌は、この歌集の序盤に集中して出てしまって、その後には就職したり結婚したり、子育てをしたりという「三体」的展開が、一冊の歌集の中で足早に進められることになる。高野の評言は、その展開をまるで温度によって水が氷や水蒸気になるようにあたりまえの女性の「性質」として書いている節がある。しかし、現実の問題として「個の意思を超えたものの力」とはその種の「性質」的本能ではなく、社会からの有形無形の要求であったろう。四十年前のこの解説では、そのことがまだ見えていない。

半開きのドアのむかうにいま一つれしあり夫と暮らせり
『水惑星』

もっとも、『水惑星』の主人公は、「状態変化」にさらされる自分自身へのどこか歯がゆいような思いを語ることもしばしばある。たとえば上に引いた「扉」の一首には、次から次へ部屋を渡っていくような自分自身の人生を俯瞰するまなざしがあるのだろう。

そういった前提の上に第二歌集『中庭』はある。だから「中庭」というのは非常にふさわしい題である。

つぎつぎにもの裏返し陽に晒すむごさを糧とし妻の日々あり
二十五時 木立も月もしあはせも偽物レプリカとなる闇に目凝らす
いつしかに部屋隅に暗き森れぬ感情といふ小動物棲み
女らは中庭パティオにつどひ風に告ぐ鳥籠のなかの情事のことなど
ドアの奥にうつくしき妻ひとりづつしまはれて医師公舎の昼
『中庭』

四首目。用意された屋敷の中で、部屋から部屋へ渡り歩いていきながら、ふいに中庭にでるような瞬間がある。この歌は、女たちが中庭にあつまって互いに家庭の事情を言い合っているのではない、それぞれが別個に「風」に語っている、そこがおもしろい。「風」は、屋敷の中でのいわゆる状態変化を司っている不可視の存在——たとえば(社会によって設定された)運命そのものであると考えてみてもいい。「運命」にむかって途中経過を報告しているといったおもむき。しかし同時に『中庭』では第一歌集の際よりもその運命、「女の三体」なるものへ思索をずっとふかく重ね、それがテーマになっているふしもある。『中庭』という歌集じたいが人生の中庭らしい空間を成しているのだ。今日の一首において「不倫」という大胆な、しかし少々わかりやすすぎるようにもみえる語がつかわれているのは、「三体」から逸脱するそぶりをして見せようというある種のいたずらごころでもあろうと思う。中庭という空間にいるからこそ主人公にはそんなことが可能になる。

*引用は現代短歌文庫『栗木京子歌集』(砂子屋書房、2001)によった。

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