川野芽生『Lilith』
(書肆侃侃房、2020)
東京にいるとそういうことが多いのだが、たとえば、いつも歩いている通りのずっと先にこんもりとした森らしきものが見える。魅かれるような気持もあるのに、なかなか行くことがなかった。ついに行ってみると、想像していたような森なんかない。公園だったり、お屋敷やお寺の庭の樹が数本、大きく育っていているだけだったりする。整備された緑道の樹が、遠くから見るとそうとう大きな森のように見えることもある。森というのは、何百何千の樹が生い茂り、そこに動物たちの営みのある、人の介入しない場所だ。そんな場所が都市にいるとオアシスのように貴重で、しかし近づくと幻想でしかなかったことを知ることになる。樹というのは少ない本数でも、周囲を包むような大きな塊になって、遠くにいる人をだます。
……歌集からこの一首をとりだし、そんなふうに親しんだことも私にはあったのだが、連作のレベルで厳密によむと、事情はだいぶちがう。この歌は冒頭の「借景園」という一連から。前後には
はつなつの森をゆくときたれもみなみどりの彩色玻璃窗の片
借景を失ひしゆゑわが庭も芝居小屋たたむやうにさみしき
という歌がある。つまり「あなた」は主人公の隣人。一連には隣家の年老いた「女主人」に言及する歌もあるが、その人のことだろう。その女主人の棲む家の、こんもりと樹の茂った庭を心の内で森に見立てて親しんでいた。「森 と思いゐし」とある、そのひともじぶんの空白には、そこが人の家の庭であるという事実を遠ざけて、自分の庭の奥にある、誰のものでもない場所として自分を思いこませていたいという想念が滲んでいるように思う。しかしその「森」が失われると現実の「あなた」に知らされた。だから、いったん、「あなたの庭」であることを種明かししなければならない。そういう一首だろうかと思う。
羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし
廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて
ながく庭に出で来ぬひとと気付かざり落花は垣を越えて降れども
その「森」に棲んでいる人をなんとなく心の内から遠ざけておきたい気持、しかし、年老いた女主人がほんとうにその家を去ることになったとき、「森」もまた失われてしまうことになる。主人公は自分の庭をあるき、隣家の「森」をながめ、ふだんと変わらないように過ごしながら、しかし、いやおうなくその人のことも意識し、しばしば考えることになってしまう。
夜の森へ消ゆるわれらの背はひかる 城のかたちに火は燃えゐるを
「Le Grand Cahier」
ひとがひと恋はむ奇習を廃しつつ昼さみどりの雨降りしきる
「転身譜」
先の「女主人」は、歌集中もちろん冒頭の一連にしか登場しない。「借景園」のなかでも、女主人についての直截的な描写はなく、主人公の思考に浮かんでくるものを読者としてはよみとるしかないのであるが、それでも歌集の冒頭に登場して印象に残るキャラクターである。と、いうのも、『Lilith』にはほかにも、「姉」とか単発的に登場する「あなた」も登場するものの、複数の連作に共通して登場するようなキャラクターはなく、よってこの歌集は主人公がほとんどひとりで思考を重ねていくことで展開していく。『Lilith』という歌集じたいが、生い茂った樹によって外の喧騒から守られた庭園のようで、そのなかを歩き回りながら、主人公は(ここに引いた二首のように)徐々に饒舌になっていく。森の下草のだんだんと生い茂っていくようなダイナミズムが、一見静かなこの歌集のひとつの味わいどころであろうと思う。