空よりのみづいろ通信ある日にて耳くきやかに駈けゆけり子は

小島ゆかり『月光公園』
(雁書館、1992)

「みづいろ通信」は、穏やかに晴れた青空を言っているのだろう。「秋霊と卵」と題された一連の中の歌で、ここに詠まれているのも秋の空なのだろうかと思う。鮮やかにギラギラと焼きつくすような青というよりは、「みづいろ」のほっと息のつけるような晴れぐあい。この瞬間、この親には、走る子の耳がはっきりとピントの合ったように見えている。読者に脳裏にも、その子の走る姿がまるでスローモーションのように浮かんでくるのではないか。おだやかな天気に演出されたそんな幸福なひとときを、「みづいろ通信」という空から届けられるニュースレターのような贈りものとして詠んでいるのがおもしろい。

集中の

砂の公園みずの公園ゆふぐれてのち影の棲む月光公園げつくわうこうゑん

という歌から、『月光公園』と名づけられた歌集であるが、この本には今日の一首もふくめ、主人公の伴走者のように晴れた空の描写がくりかえし現れる。

秋晴れに子を負ふのみのみづからをふと笑ふそして心底しんそこわらふ
冬の川覗きてをれば何者かわれを覗けり高きそらより
雷過ぎし昼のあをさよ大空に秋かぎりなき歯車ギアひそめる
少しちがふ感じに空が見えてゐる明窓あかりまどあり夫と呼ぶ窓

夫の存在を、自分が外の世界を覗き見るための窓、あるいは自己の内に光をとりいれるための窓、と語る四首目は特徴的。しかしほかの歌では、主人公は、自分を見守っているかのような空と直接関わている。二首目は、川を覗き込んだとき、空を背景に映った顔が、こちらを見ているようだったという歌。その顔はもちろん自分の顔なのだけれど、「何者かわれを覗けり」といわれると、もしかすると自分ではない何者かの予感が感じられたのかもしれないと気になってしまう。そこには「みづいろ通信」なるニュースレターをときおり送ってくれる親切な(夫や自分自身以外の)誰かがいるのだろうか?

歯車を詠んだ三首目は「歯車工場」と題された一連の中にある。

かたつむりがゆるゆる〈時〉を正しゐる まつさをな歯車ギア工場の下

その「まつさをな」工場とは、やはり空のことなのではないかと私には思える。先に引いた空とか天の歌は、もちろん一冊の歌集の中でもばらばらの部分から引いてきているし、必ずしも共通の設定があるというわけではないけれど、個々の描写ではその空に誰かがいて主人公を見守っている。あるいは、歯車工場なるものがありもする。工場からの使者のように主人公のもとへ派遣されてくる使者のごときかたつむりは、ずれた時間をゆっくりと整えてくれるらしい。引用したいくつかの歌からは、そんな「空」に主人公自身はすっかり親しんでいるらしく見える。

第一歌集『水陽炎』でも、今回とりあげた第二歌集『月光公園』でも、子供の存在は中心となるテーマだ。ただ『月光公園』では、そのあいまあいまに自分の人生を俯瞰するようなやや余裕のある歌が増えてくる。そのとき、ずっとこちらを見ていたような「空」の存在を意識する。走る子の姿を「くきやかに」演出して、親としての幸福を味わわせてくれる一方、もしかすると、その空の奥にある歯車や、こちらを見守っている誰かは、主人公が今を生きる幸福な人生から逃れないようにそっと動きを正しつづけていたのではないかと、そんなことが気になった。

*引用は2in1シリーズ版『水陽炎・月光公園』(雁書館、1998)によった。

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