野口あや子『くびすじの欠片』
(短歌研究社、2009)
その理屈にはなるほど、とも思う反面、よくよく眺めれば不思議なところのある歌で、それが隠し味のように一首の印象を深めている。不思議なところ、そのひとつには、なぜだかわざわざ「降りていく」とその行先を強調すること。ただのエスカレーターでは共犯者になれないらしいのである。そしてもうひとつは、そのエレベーターに乗り込んだ人々を、歌の語り手が三人称的につきはなしてうたっているように見える点。
特に複雑なのは後者の問題だ。「降りていくエレベーターに乗りあえば」という上の句の時点では、語り手もまた一緒にエレベーターに乗り込んでいるのだと読者は直観的に思うだろう。しかし、下の句で「ひとらたちまち」ときたとき、この歌は実は三人称的で語っているのだということがあかされる。読み解き方としてはふた通り考えうると思う。一つ目には、語り手(歌集の主人公)もやはり読者の直観どおりにエレベーターに乗り込んではいたのだけれど、なぜだか自分だけが「共犯者」の仲間にはなれなかったという解釈。もう一つは、語り手の動向とは無関係に降りのエレベータに乗れば、乗り合わせた人々はみな「共犯者」になってしまうものなのだということを、ある種の一般論として語っているという解釈。しかし語り手(主人公)の体験ではなく、一般論なのだとすれば「降りていくエレベーター」に限定した理由がやはり気になる。
形式としては三人称で語られる歌の、語り手はその仲間に入っているかいなか、という問題は、同じ集中の、
身のうちに猫を棲まわす女子生徒ばかりが集う午後の保健室
といった歌にも生じている。女子生徒たちを突き放す三人称のまなざしがあるけれど、保健室の中でその光景を見つめている以上、語り手もまた一群のなかのひとりとしてその場にいたのではないかと見ることもできる。そもそも、そこに集っている「身のうちに猫を棲まわす女子生徒」たちの関係は、結局のところ掲出歌にいう「共犯者」同士の関係なのではないか。女子生徒たちはきっと、それぞれが心の内に飼っている猫を互いに見せ合うようなことはしない。それは学校という小さいながらもれっきとした社会である場所にふさわしくはないから。でも、彼女たちは互いの猫の存在をみんな知っている。それが共犯者の意味だろう。(しかし、主人公は一群の中に蟻ながらもここの「共犯」には参加しなくていいや、と微妙に距離をとろうとするようなニュアンスも伝わってくる。)
互いしか知らぬジョークで笑い合うふたりに部屋を貸して下さい
スプーンにのった液体が何なのかわからないまま口をひらいた
君とわれのくちびるは話すためにある伊勢物語の絵巻をほどく
ジャケットの袖口の染みいじめつつ君は政府のことなどを言う
紛争をらんらんと論ずる君の何も着けない十指見ており
『くびすじの欠片』には、「身のうちの猫」のごとき特別な何かを、主人公と他者とで持ち合いながら共犯者になることを求める叫びのような歌が多くある。上の引用の、一首目のふたりのあいだにしか通じない「ジョーク」、三首目の「伊勢物語の絵巻」が実景であるとは私にはちょっと思えなくて、くちびるという特別な(!)器官をもって行われる会話を、ふたりで読みあう絵巻のようにプレミアムなものとたとえたのだろう。一方で、二首目は、そのプレミアムなものがいったい何なのかわからないまま、相手に身をゆだねるという状況。そして、与謝野晶子の「……さびしからずや道を説く君」を彷彿とさせるような四・五首目に語られるのは、共犯者たり得なかったことへの失望である。先に私は、「身のうちの猫」は学校というれっきとした小社会にふさわしくないと書いたが、この相手はあからさまに政府とか国際紛争の話をしていて、主人公を秘密裏の共犯の世界から巨大な社会へと引きずり出そうとする。その相手は、秘密めいたものを何も持っていなかったり(「何も着けない十指」)、あっても主人公にとってはまったく受け付けられないものだったりする(「袖口の染み」)。
こんな始終共犯者をもとめる生活をする主人公が、ふとエレベーターに乗ったとき、こんな社会的装置にも共犯関係がおこりうるのではないか、と感づいたのが掲出歌だったのだろうと思う。三人称的なまなざしがあるのはその観察眼のせいだろう。エレベーターは(降りであれ昇りであれ)同じ方向へと人々を運んでいく装置だ。でも、みんなで昇ったり降りたりするということはやっぱり主人公にとっては、猫とか絵巻のような濃密な共犯の印にはなりえない。そんな簡単なことで共犯を成立させる社会というものへの軽い蔑みと羨望とが、この歌には混在しているようにも思う。