笹公人『念力家族』
(宝珍、2003)
歌集の最終に「魔除け少女」という一連(章?)があって、「すさまじき腋臭の少女あらわれて」ではじまる歌が二十七首も並んでいる。
すさまじき腋臭の少女あらわれて部屋の般若の面が割れたり
すさまじき腋臭の少女あらわれて祖母から母へわたる竹やり
すさまじき腋臭の少女あらわれて守護霊団を呼ぶ妹よ
「あらわれて」がどういうシチュエーションか、はっきりと書かれてはいないが、なんとなく超常現象のごとくにその場に急に出現するようなイメージで、そのあまりの衝撃に物が壊れたり、家族が反撃を試みたりする。しかし、それはあくまで少女の「匂い」に対する警戒反応であって、少女が不可思議に出現したこと自体に対して腰を抜かしたりする様子はない。なるほど「念力家族」、超常現象があたりまえになった一家の物語だ。掲出の「家族あつまる居間の明るさ」は、歌集の中でも最後から二首目にあたるのだけれど、引用した三首とちがうこの穏やかさは、今日もボクの家ではとんでもない少女があらわれたりして、あいかわらずのドタバタでした、とでもいうような感じで日記を書き終えるような、あるいはサザエさんのエンディングを見るような、不思議としみじみする一首ということになろう。
そうして掲出歌の次に現れる歌集最後の歌はなにやら感動的だ。
すさまじき腋臭の少女あらわれてつなぐ手と手に念をあつめて
今回『念力家族』を朝日文庫版で読んでいたら、カバーに「念力、テレパシー、UFO召喚、霊視など『特殊能力』を持つ家族の日常を詠んだ本書は…」と書かれてあったのだけれど、この歌集のたいせつな部分はそういた特殊能力や超常現象の数々よりも、「家族の日常」のほうかもしれないと思う。『念力家族』をなんどもなんども読みかえしていると、超常現象そのものよりも「家族あつまる居間の明るさ」といったしみじみと普通の部分に、かえって気持ちが引っかかるようになる。そのうちだんだん〈特殊〉というのがどういうことかわからなくなってきて、ついには、べつに普通のことしか書いてないじゃないか、なんて思ったりする。たぶん、『念力家族』の読者としてはそうなってからが本番なのである。
以下は、歌集中冒頭の「念力家族」から。
注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく
憧れの山田先輩念写して微笑む春の妹無垢なり
バーガーショップで恐喝されし弟がふいに見せたる蛇拳のかまえ
遺産目当ての兄の婚約者の頭上へと先祖の白黒写真が落ちる
『念力家族』に描かれた〈特殊能力〉の正体とは、そのタイトルにあるとおり、要は「念」なのであろう。念力家族というひとつの家庭内にあって、その念は、まるでスカッシュをするように、家の居間や教室という狭い範囲でびゅんびゅん跳ね返り続けている。そんな特殊能力を持っていれば、破局的な金儲けやめのくらむような善行なんていくらでもできそうなものなのに、そんな方向の歌はない。カツアゲをされてもカンフーで対抗しようとする弟のように、まるでカタギの社会に迷惑をかけてはいけないとでもいうような非常に抑制の効いた「念」の使い方をする人々である。
そう感じたあたりから、『念力家族』という歌集がわからなくなった。いや、わからないのは〈特殊能力〉とか〈念力〉というものであって、歌集への理解はむしろ深まっているような気もする。上の引用の一首目に、自分に刺さっている注射の針をへし曲げるいたずらをする念力少女(たぶん「妹」その人だろう)がいる。注射をしようとした医者を困惑させるそのおこないは、念力家族の暗黙の掟をかすかに逸脱するのだが、だからこそその笑顔が居間の明るさを透かしたように「まぶしく」無邪気に見える。念力が使えても、人間は普通だと思う。
*引用は朝日文庫版(2015)によった。
