名を呼べばふりむく躯呼ばるるとふことそのものの歓びに満ち

矢部雅之『友達ニ出会フノハ良イ事』
(ながらみ書房、2003)

私が日々のクオリアをはじめたばかりのころ、猫を飼おうと思っていたところだったが、さすがにこの連載が終わるまではお預けだというようなことを書いていたのだけれど、とうとう我慢できなくなって飼い始めてしまった。保護団体からやってきた推定三歳のオスの黒猫で、名前はフキサという——。九月二十四日にわが家にやってきたフキサは、初日はケージの中に閉じこもっていたけれど、その後ちょうど一週間、「指数関数的に」というときのあのグラフが頭の中に浮かぶような勢いで、私が家のなかで移動すればどこへでもついてくるくらいになついた。

とはいえ、フキサの場合は「名を呼べばふりむく」ほど従順ではないし、「歓びに満ち」ている感じもしない。そんな人間的なコミュニケーションのありかたよりも、むこうはもっと猫的に柔軟な関係のすり合わせを提案してきている感じがするのだが、それでも、『友達ニ出会フノハ良イ事』なる歌集のいちばんはじめに掲げられたこの一首からうちの猫のことを思い出したというのは、人間的応答の形式をほどいて、だれかとの結びつきを求めるいきものの本能まで覗き込もうというような感触があるからだ。

「名を呼べばふりむく(からだ)」は、その人間的コミュニケーションが、反射的な動きになるほど身についているということを示している。しかし続いて「呼ばるるとふことそのものの歓び」が強調されるとき、実はふりむくということ=コミュニケーションの成立よりも、すでにふたりの関係が、いつでも好きなときに名を呼びあっていいほどに定着していることを重視しているということになる。AがBを呼ぶ。Bが反応する。そんな矢印で示せるような関係よりも、猫が足もとにきて横腹をすりつけていくような、存在と存在をすりあわせるようなコミュニケーションへの志向が、どうもあるのではないか。

度のあはぬ眼鏡をかけてゐるやうな光のゆらぎ 人とむきあふ
ゆたかなる唇がいま我にむけうごきそめたり うなづいてみる
あはき夢にあはき瞳のあらはれて朝の陽ざしのやうに吾をみる
答へなど要らぬ問ひなど問ひかけて答へんとする君を見てをり

この歌を含む「名を呼べば」という一連を見ていくと、ここにいる相手はもちろん猫などではなくて、「ゆたかなる唇」をもった魅力的な恋人であることがわかる。しかし、その相手の特徴として挙げられているのはその唇の一点のみで、一首目に「人とむきあふ」と言っているように、ぎりぎりまで抽象化されている。そして、以降の歌で意外に思うのは、主体に呼びかける恋人の姿が描かれていること。男性の主体が、自分が主体であるにもかかわらず主導権を恋人に引き渡して、自分自身の恋人への反応を受動的に見極めようとする歌は思いのほか珍しいかもしれない。しかし、その〈反応〉は目立って詠まれるわけではない。逆に、引用の四首目では恋人に呼びかけている主体が登場する——なにか「問ひ」を発しているらしい——。「答へんとする君を見てをり」というが、結局そのあとになにかめぼしい「答へ」はあったのだろうか。しかしここではっきりするのは「答へ」というコミュニケーションの結論よりも、コミュニケーションの存在自体を求めるふたりの関係があることだ。

翻ってよくよく考えてみると掲出歌は、呼びかけているのが自分なのか恋人なのか、かなり曖昧な歌だ。たぶんこのばあい、呼びかけているのはどちらかなどと特定しようとするのはあまり意味がない。主体が恋人を呼ぶ、そして、恋人が主体を呼ぶ、そんな何十回となくあったはずの瞬間が、この一首には多重露光されていて、こちらに立っているのも、向こう側で名を呼ばれているのも、まるで主体と恋人の像が重なり合い溶け合った形をとっている。限界まで露光を重ねた写真は、そこに何が映っているのかわかりにくいけれど、まばゆいほどにあかるく白んでみえる。

『友達ニ出会フノハ良イ事』には、第Ⅱ章で、テレビ局のカメラマンとして2001年にアフガニスタンを訪れた経験が、歌に文章や写真を交えて展開される。身の危険を案じられながら渡航し、しかしそこで描かれるのはほとんどが時事問題を離れた現地の人々との穏やかな交流で、そういったまなざしの種が掲出歌にあったように思える。本来は第Ⅱ章をゆっくり読み解きたいところだけれど、今回は猫の話などしていてそこまでたどりつけなかった。

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