恋をした私は歩くアラビアの木目優しき楽器を買いに

齋藤芳生『桃花水を待つ』
(角川書店、2010)

桃花水(とうかすい)を待つ』は、日本語教師の資格をとり、アラブ首長国連邦のアブダビに滞在したという日々を中心に描く第一歌集。このなかにある「アラビアの井戸」という不思議な印象を残す一連から引いた。

薄衣のさやさやとしてアラビアの妻たちが我の恋を見ている
空洞の楽器の中に一抱えほどの静かな夜が来ている
静かなるアラビアの井戸手を伸べて恋の火照りを眠らせるべし

その楽器に関して詳しく詠まれているわけではないけれど、一抱えほどの空洞といった描写からはいくらか大ぶりの、ギターのように抱えながら弾く弦楽器をイメージさせる(ウードという中東にある楽器だろうか)。しかし、どうも不思議に感じるのは「恋をした私」と、決定的な事実を読者に告げているのに、その「恋」とやらについて、その直前直後のなりゆきが、この歌集にはどうもはっきりとは詠まれていないことだ。たしかに、

君を私が見つめるように太陽を見つめつづけている海がある
さらさらに君の記憶の薄れゆく空のもっとも乾けるところ

といった「君」ならば、まだこの主人公がアブダビに渡航していない序盤のあたりから歌集中に何度も出てくる。それなのに不思議な印象があったのは、「恋をした私は歩く」はある朝突然なにかが主人公の心の中であたらしく始まって、たとえば蟬の幼虫がその時が来れば当然のように地上に這い上がるように、すべての予定をキャンセルしてその楽器を買いにでかけていく。そういう印象をいだかせるからだろう。その点、「アラビアの井戸」よりも後に出てくる、

まだ君にたどりつかない 歩くたび足にまとわりつく砂の粒
君の見ている雪と私の触れている砂と 回線越しに語らう

といった「君」のうたわれ方はヒントになるような気がする。先に引用した二首の「君」も、こちらの二首の「君」も、あるいは掲出歌の恋の相手も、みんな同じ〈君〉であるというのが、けっきょくのところ普通の読みなのだろう。主人公はアブダビという〈君〉のいる日本から遠く離れた地にまでやってきながら、どういうわけかその場所で〈君〉を探し続けている。まとわりつく「砂」は、アブダビという異国の地を象徴している。日本にいる〈君〉に向かって歩こうとしながら、砂漠のなかを報告感覚をうしないながらくるくると歩き回っている感じ。「回線ごしに」話をすることはできる。その回線は当然〈君〉のいる日本に繋がっているはずだが、それでも主人公は自分の足元でその人を探し求めようとせざるを得ない。結果として楽器を買いにいく、ということだったのか。

つまり、アラビアの土地に主人公が身を置いたからこそ、心の中で〈君〉がまったく新しく発芽したのではないか。その瞬間が「恋をした私は歩く」だった。掲出歌を含む一連「アラビアの井戸」のなかに、その決定的瞬間に見いる「アラビアの妻たち」が描かれていたのは印象的だ。本能にうながされるように楽器を買いにいった主人公を、みんな、そうなるんだね、わたしも、そうだった、と、まるでこの土地にいる者はみなそうなるのだとでもいうように、囁きあう声が聞こえてきそうだ。

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