を下さい・へ行かしてよ・に成りたい バベルの塔の形うつくし

『銀河を産んだように』大滝和子

塔に集い、やがてきっぱりと割られたものは言語だけではなかったのだ。正確には、言語とは単に表向きの音や見た目やアルファベットのことではなく、生まれつき心に刺さって抜けない楔であったから。それはきまっていくたりもの人と手をつなぎたがっては、振りほどこうにもあらゆるやり方でますます力強く握りかえす。その思い思いの握られ方で、人は言葉を読み解き、言葉によって、何事かを感じている。
想像に生じうるどの願望も、この空白には代入される。そればかりか代入を要求するための変数があらかじめ用意され、「下さい」「行かしてよ」「成りたい」という願望が初めから備わっていたことになる。ほしくもないお菓子も、行きたくもない旅すら、あったことになる。そのすべてがあったことになる。願望を人は否定も拒否もできない、せめて建築の美しさを茫然と、言葉を失って・・・・・・見あげることしかできない。いま私が思っているのは、文明批評とかではなくて、言葉と本性が何らかの形でこれ見よがしに接触しているのではないかということ、またその普段ではまるで見えない経路が突然このように短い一首に現れてしまう奇妙な、そしてあらがえない喜びのこと。

なかったものがあったことになる。たとえばこのように。

ペルシア語はなしてみたき舌先をもてあましいる春のゆうぐれ
目つむりて銀の闇を視てごらん 五分のなかの五千万年
「偶然」と「運命」の差を追うごとく白球取らむと背走する人
(いずれも『銀河を産んだように』から)

「偶然」「運命」なんて文字にしなければ決してあらわれることのない概念。ひとたび書き起こされれば、野球場の白いボールが途方もない概念を背負って屋外球場の夜空を舞っている……「白球の叙事詩エピック」はずっと短歌を読み始めたころから読んでみたくてたまらないのにタイトルしか知らない、タイトルだけでほとんど私の妄想の中に存在してきた連作だったから読みおわったらもうこれで満足だ、とかそうなるわけもない。
なかったものがあったことになる、読書人の愉悦は、このように一首の中につまびらかであって、韻律ともなれば立ち止まることもできないのをこんなにも体感してしまうことがある。それにしてもどうして、人は言語をこれほど細かく分けられたのに、全く奪われるということはなかったのだろう?

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