堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
酩酊を味わうために意味もなく回転をして一人遊びをした記憶がある。子どものころはしょっちゅう回っていた。回転時間を長くするほど、また回転速度をはやくするほど、その後に強い酩酊が待っている。回転というのは子どもにとって、大人のお酒と同じ効用を有しているのだと思う。
掲出歌では君がヘリコプターの真似をして回転している。おそらくは両手を広げてくるくると回っている。「ヘリコプター!」など言いながら回っていたのかもしれない。ヘリコプターの回転速度と人間のする回転速度には大きな隔たりがあって、人とヘリコプターでは存在のかたちもまったく違うし、厳密に言えば真似できるものではない。さらに言えば、人がヘリコプターの真似をするとき、ヘリコプターはその巨大な胴体を失い回転する羽だけの存在となっている。
場面としては飲み会のあと、二次会に移動するまでのだらだらとした時間などを想像する。いや、飲み会とはまったく関係のないシチュエーションかもしれないが、心身がほぐれてまだ元気もある、良い飲み会のあとの二次会手前の空気感がある。そういう場面のリラックスした光景にもかかわらず、この歌には靄がかかったようなさびしさがある。最後の「だった」が過去の話であることを示唆しているので時間的な距離が発生しているのはすぐに分かるのだが、何かしらの紆余曲折を経て遠ざかったものを、目をほそめながら眺めているような趣きであり、祭壇の上に置かれた思い出というか、もう触れてはいけないものへ向けられたまなざしであるように感じる。
先に述べた大きな隔たりや本体を失ったもののありようはヘリコプターの真似という一点から見つけられるものだけれど、それはこの歌から感じるぽっかりとした喪失感の根っこにもなっているように思う。歌として現れた言葉、語調、イメージの歯車がすべてを遠さへとみちびくように動いている。
また、何かの真似を披露することは、その人の何かへの認識がむきだしになることでもある。この歌で言えば君にとってのヘリコプターの本質はその羽にあり回転にある。ヘリコプターの胴体に比してみればはるかにかぼそい箇所が本質を担っているという君の認識がむき出しになる。しかし、むき出しという行為の近さが描かれながら、その出来事はやはりものすごく遠い。この歌には、消化された記憶の粒子のこまかさ、なめらかさが含まれているような気配がありつつ、しかしそれを見つめなおすときの苦しさはそれでもまだかすかに生きている。