あとずさりあとずさりして満月を冬の欅のうれより離す

『空合』花山多佳子

葉の落ちた木々を通して、夜空を見あげている。明るい月が木の枝の先端に重なっているのを、少しそこから位置をずらしてみている。枝にじゃまをされて月が見えづらいといったこともあるかもしれない。

三分ほどじっくりと考えて分かったのだけれど、このとき変わっているのは満月とこの人の位置関係ではなく、はるかに近い「欅」との位置関係である。月は遠すぎて、二、三歩動いた程度では位置が変わったともいえないだろう。欅から体を遠ざけることで、満月が位置を変えたかのように、視覚のフレームの中で十分な余白をもって目の前に現れる。

この人が何歩か歩いただけにも関わらず、表現の上では満月を「離す」として月に対する操作が加わっており、また実際に起こった結果としては「欅」との相対的な位置関係が変わっている。歌の主題は月であって、欅は背景であるが、この人に対してより強い影響を与えたのは欅のほうだ。まずは、こうして表現も意味もおのおのが別の方向を向いているのに、言葉としては何一つ矛盾なく、むしろわかりよい歌として成立していること。さらにいうなら、月を動かすなんて当然不可能なのだが、その不可能性が言葉の上だけにかろうじて、しかし言葉でしか実現しないから一層はっきりと、具現化して見えること。このあたりの飛躍とか、対象同士の緊張感とか、足の裏で擦った砂利の音が聞こえてきそうな感じ、なんといっても「あとずさり」の効果によるものである。はじめに考えたことからわかるように、この場合後ろに下がるのではなく、前に何歩か歩いたとしても得られる結果はまったく変わらない。やはり月は木の枝から剥がされて、じゃまされることなくよく見えるようになる。ただそれでは、肝心ないっさいが失われてしまう。「あとずさり」「あとずさり」に始まる五音+五音の音数をきっちり使って、後ろに下がる動作が等速またはわずかに速度を落としたリプレイで再現され、その音韻までも使い切って砂利の感触が足の裏に残る。顔の向きは変わらず、視線はもちろん夜空に置かれたままである。この導入があって、はじめて月が生々しく夜空を動いてゆく歌になる。

「あとずさり」がもう一つ意味を持つのは、人は、前に歩くようには、後ろには歩けないという点である。それでも何かの結果は生まれうることを、明るい月がほのめかしている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です