『形影』佐藤佐太郎
ひとつ前に
疲るれば瞳のいたむこの日ごろ老の迫るもさまざまにして
とあり、見ることが少しつらかった時期のようである。疲れて目が痛いし、眼鏡(がんきょう)の度が合わないようなので調整にゆく。春の日々がそう余裕なくすぎてゆく、という作品ではあるのだが、いっけん身辺を書いたものであるのに、そう些末な内容にも見えないことになってしまっている。眼鏡を調整した、という事実と比べて階層の異なる、抽象度の高い別の話が同時に進んでいる感じを受ける。
思うに、当たり前だけれど眼鏡というのはぴったりと調整があっていないとうまく使えない。その調整度合いは人によりけりのオーダーメイドと呼ばれるものである。眼鏡と目の間には数センチほどの空間が設けられているが、その幅も人によってそれぞれに細かく異なっている。この眼鏡と目の間に設けられた一定の空間が、普段は特段感じることもないのに、いざ調整をするとなると奇妙に、驚くほど強く意識されてくる。本当に見るべきはずの眼鏡を通したその先の世界ではなく、鼻あてに押さえつけられ、支えられた顔の正面の数センチ分の空間こそが、世界のすべてであるような気持ちになってくる。
春のカレンダーというのもきっと同じようなもので、ここでは微視的なものと巨視的なものが同様に並行して認識されているような気がする。あからさまに花が咲くだとか鳥が鳴くだとか、自然界の暦の忙しさに加えて、春には新年度や新学期という節目も加わってくる。毎日なにか出来事が起こり続ける季節を立ち止まってつぶさに眼鏡越しに見る感覚と、茫然と裸眼で送り出す感覚が、「日々ゆく」の四字で同時に再現されている。どちらの感覚へ寄るにしても、めでたさ、晴れやかさとともに一種の緊張感が伴い、それは眼鏡を通して世界にピントを合わせた際の緊張感、最後の微調整を加えた技師の手つきの緊張感と類似したものなのだろう。暇(いとま)がないというか、巨大なキャンバスを眺めるあいだ視覚が脳を緻密に埋めつくしてしまうように、感覚のどこにも隙間がない感じがする。春がそのように圧倒的な量感でやってくるものだということを一首が逆行的に思い出させる。そして量感の陰で、春というものを、このようにどきどきと迎える気持ちがかつてあったこと、個人的なものが静かに胸を訪れる。
