山川藍『いらっしゃい』
プライベートで撮影する写真は基本的には思い出用である。なので自分が被写体になるときにはピースをしたり何かポーズをとったりするものだし、そういう動きが出ることで表情にも自然な感じが出てくる。それと違うのが証明写真である。動いてはいけない。あごを引いて前を向かなくてはいけない。前髪で目が隠れてはいけない。いろいろないけないことに縛られてなお自然な微笑を湛えていなくてはいけない。がんじがらめのなかで自然体をよそおうのが証明写真であって、特に就職、転職の履歴書に貼る写真であればなおさらのプレッシャーとなおさらの自然体が交錯する。
「履歴書の写真がどう見ても菩薩」、ここで一回衝動がこみあげてくるのは履歴書と菩薩という遠距離の言葉が唐突に最接近していることによる。菩薩とは悟りを求める者である。たしかに仕事は修行のようなものだけれど、就職活動は仕事に就きたいという欲望のあきらかなかたちである。絶対に就職活動をしないはずの菩薩がいま目の前で就活をしている光景を突然突き付けられたとき、何か腹のあたりがひくひくとひきつる。自身の顔写真を菩薩だと認識して提示するのはある意味で自虐なのだろうとは思いつつ、下句「いちど手を合わせて封筒へ」にはただの自虐では終わらせない盛り返しがある。菩薩となった自分はもうありがたく、ありがたい存在には手を合わせる。証明写真の自分の顔に自分で手を合わせるとき、「もう菩薩でいいや」という投げやりな気持ちが、せっかくだから拝んでおこうというありがたい気持ちにすり替わる。このすり替わりのスピードがものすごく速い。その速さにもう一度衝動がこみあげてくるのである。
なんだあのカップル十五分もおる「あーん」じゃないよ あとで真似しよ
イヤリング母からもらうなんだこれ中華のたれか何かついてる
わたしから地蔵オーラが出ていると兄。大仏でなくて良かった。
すり替わりは負から正へ正から負へとそれぞれだが、このスピードは短歌界でもそうとうの俊足であると思う。これだけの速度で疾走しながら、一首には歯をくいしばるような顔の歪みがいっさい見られないのも面白い。無表情なのにものすごく速い。『いらっしゃい』におさめられた作品の、余人をもって代えがたい特質をここに見る。