『捜神』前川佐美雄
この歌のXが鳥であることはすぐにわかる。鳥を少しこわいと感じるのは、動きが機敏であるからだろうか。とつぜん木の間から飛び出してくる、こっちに向かって飛んでくるということもあるし、もっと些細なところでは首の角度をしゅっと変えるのもいきなりである。たがいの視線から心の動きを読みあうことに慣れすぎている人間としては、いきなり首をひねるという動作はなるほどふいうちに違いない。この歌では、草むらから飛び出すのと反対に、鳥が「不意に」飛び出していく、「わが身体」から。まえぶれなく割りこんだり飛び出したりしてくることが鳥の特徴であり、ときどきは声をあげて「鳴く」こともある。書かれなくてもほぼシルエットの様相で鳥があらわれ、この人の身体から抜け出していった。
せっかくなので私もいきなり議論を翻してみるとしよう。「鳥」とはっきり書かれないことで、どうみてもここにあるのは鳥のシルエットなのに、そうではないかも、という可能性も残されている。確信のあとになんだか不安が残る。障子の裏側に回ってみると、そこにいるのは虫かも、蛙かも、天使かもしれない。鳥であったとしても、小型のそれなのか、大型の猛禽みたいな鳥かもさだまらない。シルエットというか、この場をよぎったものはたんなる印象なのである。鳥でありながら、絶対的な具体を欠いているさまがあり、それでいて歌の芯が強い。こうして読み解いてきたことで上句の「生きてゐる証」がずしりと心にのしかかってくる。鳥か、鳥でないなにか。身を割いたその存在は、この人の「生きてゐる証」を負うべく空間にあらわれたものである。ここにある一瞬の手前にはるばると積み重ねられてきた生存の証、その意味では魂魄を置き換えたというのが正しいすがたなのかもしれない。たんなる印象であればそこはかとない衝動や不穏だけを残して飛び去ってしまう鳥が、ぜんぜん別の重さを背負って、いや背負わされている。ゆえに、鳥は飛び出しながら空の彼方へ去ることなく、この場にとどまり鋭い声を上げたのである。
白猫ははなればなれに仰向きにねつつ遊べり梅雨ふけし家に
〈もの〉の扱い、たたずまい、なんといったらいいのか、存在感のありように転ずるだろうか。白猫ひとつ(二匹?)とってもどこまでも彫刻的であると感じる。今年、梅雨がふと明けてしまって喪失感のようなものがある。この歌では梅雨がより深まっている。降りこめられている屋内に、白猫が二匹点々と落ちている。よく見るとおのおの自分の遊びに執していて、猫ではあるが、関心がもう片方に対してではなくその内面へ落ち込んでいくようすが、梅雨の深まりと同期している。猫の内部にもういちど梅雨という季節が生じる。
Xの所在地、名詞のありなしによらず、〈もの〉の存在をさまざまに書き起こすことができるのだと、作品の横顔をいくらでも眺めていたくなる。そういえば先般見たブランクーシの鳥が胸をよぎるのだなと、ようやく思い至った。