バス停は根こそぎ暮れて蟬声のなかへなかへと溶けてゆきたり

江戸雪『カーディガン』

 

バス停はバスが停車する場所全体を指す言葉だが、一読立ち現れるのはバス停の標識である。あの、道の脇に背筋を伸ばして立っている目印である。暑い一日が暮れてくらやみが広がりはじめるなかに標識はあるわけだけれど、夜になっても灯ることなくくらやみが来ればくらやみに従う標識である。その様子には何となくの生きものっぽさが滲む。暗くなっても明かりを灯して二十四時間稼働し続ける機械的な存在感というよりも、もっと人間や草木に近い存在としての把握があるように思う。「根こそぎ」という語もバス停の生きものらしさを損なわない表現だろう。上から下まですっかり闇に馴染んでいきながら、そこに蟬の声が降る。バス停は闇のなかにあるとともに、蟬声のなかにある。読み手としての理性はそういう落としどころを見つけて踏みとどまろうとするのだが、歌のくらやみはそうした理性をも包み込んでくる。

闇であることと蟬の声であることの境界を見据えようとしつつ、それを見据えることができなくなってくるのである。バス停を溶かしていったものは闇なのだとは思いながら、それでも最終的な感覚がみちびくバス停の溶解原因は作り手にとっても読み手にとっても蟬声ということになってゆく。錯覚だったとしても闇の巨大さが蟬声の一途な激しさにいつしか乗っ取られてしまったような感覚である。とはいえ闇の巨大さもなかなかのものであり、結局は闇と蟬声のせめぎあいのなかに茫然としてしまう。バス停が溶けてゆくのと平行して闇というもの、蟬声というものの認識も溶けてゆく。真夏、炎天下の時間を耐え忍びそこでは溶けなかったバス停も認識も、夜の訪れを待ってから溶けはじめる。一首に描かれているのは夕方から夜にかけての時間であるのだが、事物が溶解してゆく弛緩の向こう側にはテコの原理を使ったように灼熱の昼間がゆらゆらと感じられるのもこの一首の醍醐味だろう。

明瞭な認識というのは基本的に大人の持ち物だと思う。一首のまなざしはその明瞭さを失うことと引き換えに子どもの目のような気配を帯びている。夏の時間が与えてくれた不思議なまなざしを存分に味わいたい作品である。

 

離さずにいるといった手がここにあり暗い厨にトマト握って

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です