森の樹がみな手を垂れてとなる時われのうしろに椅子置かれけり

『捜神』前川佐美雄

あきらめがたく「梅雨五十吟」という連作から。桜の散るときと同じくらい、梅雨の終わりをもうすこし名残惜しく感じてもよいのではないか。昨今の真夏の嵐のなかで傘を振り回されながら歩いて移動しなければいけないことを考えれば、梅雨の雨は慈雨とでも呼びたいほどやさしい。

この夜もとうぜんのように雨が降っているだろう。あるいは降りやんで、土の湿りは残りながら。どういう状態が「夜」と呼ばれるかといえば、ふつうは太陽が沈んで、空が暗くなるころ合いである。暗くなったから樹々は手を垂れて眠りのような状態になった。理屈はふつうにはそう運ばれるのだけれど、少し語順を違えて、ここでは〈森の樹がみな手を垂れる〉状態のことを「夜」と呼んでいる。暗くなったから夜と眠りの時間が訪れるのではなく、森の樹が手を垂れること、少しかみくだくならばたとえばゆるやかな気温の低下によって、樹々の葉が重力によりわずかに垂れ下がり、そのささやかな変化のために全体の印象が変わって見えること。太陽が沈む、星がのぼるといった空や天体の変化以外にも(もちろん事象の原因はそのせいであるとしても)、夜になると世界にはもっといろいろなことが起こっている。樹の枝がわずかに垂れて見えるとか、そういう音のない変化を身めぐりの事物はさまざまに負っている。

そのうちのひとつとして、この人の背後に椅子が置かれたのかもしれない。「夜となる時」で連結された上句と下句はほとんど対になっていて、樹々が手を垂れたとき、同様に椅子が置かれている。あたかも植物のごつごつした腕が部屋に侵入してきて、椅子をしずかに設置したとすら感じられる。椅子はまちがいなく木製であろう。椅子が置かれたとなると、この人がつぎに行うのは座ることである。椅子を置くことは直接意味しないのに、実態として座ることをほとんど強制する。椅子は人工物であるが、その置かれた場で生じる一連のできごとは自然のなりゆきにかぎりなく近い。夜になる、樹々が枝を垂れる、雨水が天をめぐってふたたび地上に降り注ぐ。そういった大きなサイクルは、人間から見ると事物がそれぞれの役割を果たしているようにも見え、そうしたさまざまな役割のただなかに、この人じしんがふいに置かれている。椅子に座ることを、天が命じている。そのときむしろくっきりと浮かび上がるのが個という存在であるから、この歌でもまた、もっとも目立ってスポットライトを浴びているのはこの人じしんであると見えるのだろう。

前回、「証にか」の「か」が気になっていることを言いそびれた。一首評という決断のいとなみのなかで意図的に無視してしまったのだけれど、「か」はためらいであり、疑いである。この飛び立った物体Xに対して『生きている証なのだろうか?』と疑うとともに、『生きている証……?』という、生存の痕跡、生存そのものの根拠に対する疑惑がひっそりと歌の中に残されている。あるいはその疑いこそが、生存を逆説的に、もっとも強く根拠づけるのだろうか。きょうの椅子しかり、なにかささやかな問い直しが歌集を通してそれとなく連続して、しずくしている。美には裏付けが必要なのだと、ぞくぞくと身を震わせてくる。

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