空中都市行くがに雨後の街ひろし自転車の車輪車輪のひかり

『ヘブライ暦』小島ゆかり

この歌のひとつひとつの断面が、少しずつ日常の言葉の使い方を飛び越えながら、それでいて全体としては問題なく意味を伝えている、そこにうっとりとした詩の喜びがある。

雨があがったから外に出て自転車に乗ったのだな、とふいに理解を得た。読んだそばから開放感に包まれる感じがあるのだが、この歌の背景にはそうした理屈というか、根拠が備わってきたことに気づく。雨があがり、部屋を出る。部屋から出れば外は街であって、この人の立つ空間が大きくなることは当然である。この歌では、自転車を見ただけではなくじしんが乗って移動のスピードも変わったから、より空間の大きさを感じたということにしたい。そうした空間の変化に対する感想が「ひろし」であるが、歌の中では同時に雨があがったことの喜びを「ひろし」と置き換えて書くことで、実際に起こったできごととは少しだけ遊離している。

雨あがりの表情をつくった街で自転車をこぐことが、「空中都市」を進むように興味深い、とされている。「空中都市」になぞらえるからには、じっさいにその場所に行ったことがある、(読者も含めて)その場所に関して見聞きしてなにかの知識をもっている、ということがほんらいは前提となるだろう。もちろん、だれも架空の「空中都市」に行くことはない。架空であっても、一定の知識となって共有されるということもあるだろうが、「空中都市」についてそこまでの共通認識が備わっているのか、どうだろうか。マチュピチュか、なんとなく雲にまぎれて宙に浮いている古代の伝説めいた場所、というくらいしか語ることができないのではないか。しかし、この歌での「空中都市」はかなりリアルなイメージとむすびついている。雨のしずくを滴らせながら、雲の合間からよみがえってきた日差しがきらきらと窓ガラスに反射し、そこに行きかう人々を照らして輝かせている。このリアルなイメージは「雨後の街」としてすでに心のなかに持っているものである。つまり、「空中都市」が「雨後の街」を支えるというだけではなく、「雨後の街」という知識が、「空中都市」のイメージを補強している。現実が、架空をより強くするための基礎材となっている。比喩というものは、ふつうは喩えられる側をわかりやすくするために喩えを使うということになっているはずだが、この歌では微妙な逆流が起こり、しかもその力ずくではない微妙さが魅力になっている。

下句がもっとも目を引く。「自転車に乗った」ではなく、「車輪」「車輪」という組み合わせ。これが成立するのは、車輪がまわること、自転車には二つの車輪が前後に取り付けてあることと矛盾しないからだろう。単に「乗った」と書かれるよりも、少しだけ負荷がかかる分、歌としては前進の力を得ている。ペダルを踏みだす一歩とちょうどおなじくらいの、力をかけて読むことが求められている。

どれも日常の言葉遣いから大幅にではなく少しだけ離れている、ところがポイントであるだろう。思い描く日常に比べて、実際に過ごしている日常では、この程度の飛躍はたぶん、いくらでもあたりまえに起こっている。そうしたものにときどき気づき、触れる(そして忘れる)喜びが、詩になると無数に再現されて記録されることに、ちょっとした畏怖もあるのだと思う。

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