『すべてのひかりのために』井上法子
この歌集では〈私〉がいつもビニルのように半透明であって、見えないのだけれど手触りがある、その手触りというものは読者が知覚しているものだから、〈私〉は作者を読み取るのではなくあくまで読者として存在しているのである、という転換がある。作者というフィルタは半透明のビニルで、風景を基本的には通過させたまま、光を通したり、はねかえしたりという役割をしている。
陽に透かす血のすじ どんな孤独にもぼくのことばで迎え撃つだけ
ほら、ぼくら無傷でやる瀬ないけれど…ほら。めいっぱい咲けば此岸を
ここに〈私〉を立てようとするとすぐさま〈私〉とは私のことになる。どの歌にも胸の痛むような体感がある。これまで抱えてきた痛ましい思い出、いや思い出がもしなにかの具体を伴うものとすれば、この場合はそういうことではない、これは心の空洞に満ちるエーテルのような目に見えない痛ましさである。孤独を迎え撃つ私、無傷であって「やる瀬ない」私。「ぼく」と「ぼくら」の違いはあるけれども、いずれにも私が含まれているという実感を受ける。少し逸れるが「無傷でやる瀬ない」という描写があえて流してあるようで重要だと感じた。現実の傷、生傷を負った時代が過去にあり、今となっては比較すればこの身は無傷というほかない。過去は彼岸となり、只今は此岸の時代である。
火影がただの影になるまで声をあげわかるよきみたちの来世は鳥
こういう場合は「きみたち」と呼ばれながら〈私〉は私でもあり、じしんが来世に鳥である可能性を予見している。上句で声をあげたのはだれか? という疑問に関しては、こうした〈私〉の立ち位置の交換によって、すなわち私自身である、という回答が成り立つ。上句が疑問だけで終わっているなら実感を伴って歌が読まれることはないが、読者はあらかじめ立ち位置をこのように読んでいるため、じしんが低くうなり声をあげたような、声帯のしびれを感じることになる。
そろそろ掲出歌に。「ちゃんとわれをわすれて」のニュアンスはこの場合どんなものだろう。やはり〈私〉がここでも私であったり、「あなた」と呼びかけられる存在であったりする。加えて「たった今」と始まりながら「みていた」と付け加えられるために、歌の中に通っている時間の軸はまったく一本ではない。上句と下句は時間的には断絶している。おそらく空間的にも。そうして私の場所を上空から探しているうちに、もはやそれは「われをわすれて」の状態になっていると言えるのだろう。「ちゃんと」忘れているということは、むしろその私を探す行為が誠実であるということ、「たった今」をやがて失い、いったん断絶した未来からもう一度見返す行為を受け入れてゆくこと。太陽がもたらす光は、文芸の中で多く不変・普遍であるとされてきたけれども科学的にはちっともそんなこともなくいずれ燃え尽きるだけである。そういう矛盾を抱えた天体の営みが、たがいに見つめることのできる距離で向き合う「あなた」と私のもとに日差しとなって届き、肌を温めている。燃やすのではなく、焦がすだけの(宇宙的には)ささやかな熱、の中に私を模索する行動のせつなさ、痛ましさのなかに、未来の肉身は備わっているのだと思う。
