転生を信じられないぎりぎりの銀杏並木を風は吹き抜け

『スウィート・ホーム』西田政史

転生を信じる、といった場合おそらく二種類の意味があるとみえる。ひとつは文字通り、生まれ変わりという現象が起こる、世にあることを理解し、信じていること。イエスのように特定の人物だけを指そうが、人類いっぱんに同様の概念を広げようが、この場合そこにはかかわりがない。もうひとつは、転生を信じるの「信じる」の部分により軸足がおいてあるというか。現代の科学についての知識をベースにすれば、物理現象として生まれ変わりが起こることはまずなさそうである。ひとたび死が訪れるなら、脳や肉体の復活はとうてい起きえない。が、それでも「信じる」ということができるはずだ。矛盾するようだけれど、現象が起こるかどうかと、信じるかどうかは別問題だ。信じることにより、何かが変わるとするならば、信じていることだけはできる。その現象が生涯目前におとずれないとしても、信じたままでいることはできる。

なぜ、そのように思うかというと、人はだれも、生まれる前の記憶をもたないからである。じしんがだれかの生まれ変わりなのかどうか、確信をもって説明できることはない。私がだれかの生まれ変わりではないと断言できる保証がない。私やその人がだれかに生まれ変わらないことを見届ける機会はない。だから、転生を「信じる」としたら、その行為に関してはべつに不可能ではない。

この歌の「銀杏並木」にともなう印象は、こういったことなのではないか。ほら、思い浮かべてみよと告げられれば、銀杏並木の黄金のイメージが多くの場合容易に、脳裏に浮かぶであろう。それは現実に見た銀杏の木か? そのときあなたはどこに立っていたか? 現代の環境では、じっさいの記憶と、映像や画像とはたくみに混ざり合ってすでにわかちがたいはずだ。だから、吹き抜けた「風」は銀杏並木を通過しながら〈私〉の背をなぞってゆき、しかし〈私〉の視点をついに明らかにはしない。この歌では無視点のスタンスのまま、「銀杏並木」のイメージだけがおどろくほど鮮明にうかびあがる。このイメージは「転生」する前の記憶なのか、そうでないか(生後に成り立った記憶であるか)もまたあいまいである。あまりの鮮明さに自信はゆらぎつづける。どこでもない風の通り道に立ちながら、その境界をこの歌が「ぎりぎり」であると見極めようとしている。「ぎりぎり」を自覚しながら、わずかに片足に重心を載せたこの人は、転生を「信じられない」。それはそうだろう。そういった観念をもたないことは精神の自由なのか、枷なのか、私自身も狂おしく感じることがあるけれど、信じられなさにむしろ、冷たい共感のようなものが満ちている。

手に負へぬ本を戻しておくほどのおのれの始末 あす雪になる

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