歩道橋撤去されたりまぼろしの足が夏から秋へと渡る

中津昌子『記憶の椅子』

 

ホメオスタシスとはあらゆる環境の変化にあっても、生体の状態が一定に保たれることを言う。夏の暑さのなかでも冬の寒さのなかでも人の体温はだいたい36度くらいに保たれているのもその一例である。歩道橋が撤去されてもその残像を渡ってゆく足があると詠うこの歌にも、そうしたホメオスタシスらしき作用がある。歩道橋というモノがなくなることで、そこを渡ってゆく足もなくなるわけだが、それでも歩道橋は残像として存在し、残像の足がそこを渡る。残像は、ないけれどあるモノである。環境が変わっても残りつづける歩道橋とまぼろしの足を思うと、これは世界という巨大な生体のなかで繰り広げられるホメオスタシスなのではないかという気がしてくる。面白いのはこの歌のまぼろしを見る視線には驚きのような感情がいっさい含まれていない。まぼろしの足を見てしまうのはほとんど幽霊を見てしまうのと同じようなものなのではないかとも思われるのだけれど、「歩道橋撤去されたり」と「まぼろしの足が夏から秋へと渡る」のあいだにテンションの差がない。少しとろんとした視線はとろんとしたまままぼろしの足を眺めているようである。

撤去される前の歩道橋は道路の向こう側に渡るためのものだったが、撤去された後の歩道橋は季節をひとつ越えるためのものとしてある。残像としては残りつつ、しかし現実からみれば役割を間違えながら歩道橋はそしらぬ顔をしてその身を投げ出し、まぼろしの足もそしらぬ素振りで次々にそこを渡ってゆく。誰もなにものも驚くようなことのないもう一つの世界がここにある。

 

だんだんにとうめいになってゆく父がながき手のばし夕刊を取る

 

現実にないものが存在するのとは逆に、現実にあるものがないものに接近してゆくこともある。あることとないことの境目が曖昧になる。これは鋭利な視線によっては決して見ることのできないものなのだろう。寝起きのようにとろんとした視線をつねに保持しつづけることでしか見えないものがあるのだということを教えてくれる作品なのではないかと思う。

 

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