地下室に/無数の瓶が立並び/口を開けて居り呼吸をせずに

『猟奇歌 夢野久作歌集』

退廃の観念がこの短い詩形に詰め込まれると、血、死、笑いといった単語の強い印象がはっきりと目立ってみえる。奇妙で、それゆえの新奇さが作品の唐突な核である。言葉に詰まるような歌、文脈がなければ扱いに困る歌も多いという感想ももったが、巻末に収録された寺山修司による論評がおおいに助けになった。

夢野久作の「猟奇歌」は、必らずしも作者の位置をあきらかにしなければならぬような「私性文学」として書かれたものではない。
自らの存在を禁忌として対象から切りはなし、そのことの不運を世界への冷笑としてお返しする。
(「猟奇歌」からくり――夢野久作という疑問符)

として、モチーフであるダダイズム、猟奇性に対し、短歌の世界で課題とされている〈私〉の位置という角度からの光を当てることで次のようにいたってロジカルな、つまり無秩序、破壊性に対する秩序と再生の手続きが加えられている。からくりを解くような操作が可能となる。

『ドグラマグラ』や『白髪小僧』の作者がダダイズムや変態心理尊重を、全人類の不良化の問題としてとらえているのは、いささか奇異である。(中略)久作は、自分が夢野久作であることに疲労している。

あこがれや背徳感という陶酔的な観点を(「らしさ」ではありながら)この歌集から排し、代わって自己に対する近代的な冷めた疲労、憂鬱、疑いがエッセンスとして見出されている。だから、探偵小説の延長としての「覗き見」という歌の中における行動(スタンス)、「謎」、「迷宮」といったキーワードが鮮烈に響く。

掲出歌では地下室、というのが少しばかり不穏だけれど、いったん措くとすればたんに空き瓶が保管されているだけの光景である。そのなんともなさに、〈夢野久作〉という看板がかけられた怪しげな保管庫、であれば生き物や標本のイメージもここに重ねられるだろう。しかしこの歌はそうした場所に立ち止まっているわけではない。「呼吸」とは、保管庫に保存された標本が過去におこなっていた生命活動を指しているだけではない。この瓶がけっきょくは空き瓶であることにもかかわる。この歌を斜からながめている人は、瓶に閉じ込められた生体標本ではなく、ぽっかりと口をひらいた空き瓶に身を重ねている。しかも、息をしない無生物として。生きながら、生きていないような実感のなさが、「呼吸をせずに」と書かれた意味である。その書きぶりはたどたどしく、むしろ乾燥して。この歌に流れる時間はまちがいなく夜だと感じるけれど、なまぐさくにぎにぎしいカーニバルとしての夜の向こうに、もう一度カーテンを引けば〈私〉を欠いた現実の夜がひっそりと横たわって見える。

お月様は死んでゐるの/と子が問へば/イーエと母が答へけるかな

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