『昨日まで』吉井勇
※ルビは適宜省略
秋、という季節がいつか失われるときのために書いておきたい。遠くないうちに、夏か冬(夏以外)がほとんどということになり、照りつける日差しの強さ弱さくらいしか季節を感じるすべがなくなる、そういう日が来るのかもしれない。かつて秋には紅葉が映え、施設でしか見ることのできない特有の虫が鳴いていました。というだけの情緒を越えたものがあることを思い出しておきたい。
ここにいる「女」はまばたきを繰りかえしている。出くわしたこの人は女のしぐさを美しいとか、優雅、魅惑的、と感じたかもしれないが、どちらかというと緊張しているときにもまばたきが増えるのではないだろうか。まばたきをすれば、涙が増えて目がうるおってくる。眼球に対する光の反射が増えて、漣がおこる。その水面の揺らぎ、そういう揺らぎをつい感じ取ったような心のうちがわ、まばたきを目にしてなぜか心が動かされたことに対して、この人は「秋の灯」と書いているように見える。「夏の灯」であればはかなさ、「冬」であれば奥行きが立ちあがるであろう。「秋」は思い浮かべるとするなら、冬ほどの奥深さ、つまり雪に降りこめられて先の見えない状態ではなく、しかし葉を踏み分けて山に入ってゆくに適当な季節ではないか。落ち葉のようないくつかのレイヤーが重ねられて、すこしずつその用紙をめくることができるような。夏の季節に視野いっぱいに広がる大画面とも異なる印象である。秋の風景は色味が微妙であり、目移りしていくらか気が散る。ともしびは冬の木枯らしほどでない淡い風を受けてちりちりと揺れている。女は憧憬の対象でありながらこの場にある一人でもある。環境に向かって揺らぎやレイヤーを読み取り、しかもページをめくってみたいという素朴な意欲に少しだけ心を弄ばれる季節が、秋なのではないか。
「いとおほく」「ここちこそすれ」はそれほど全体と調和していない。「女」のもたらした緊張感が、古典的な表現にそうそぐわないと感じられる。特に「いとおほく」はなんだか変。回顧的な作風にあって、「まばたきの数」=数を意識するという行いがやや突飛にも見える。流れやまない思念の中で、わたった橋や座敷に並んだ徳利の数を拾っていくように、なにかの区切りがくっきりと意識されようとしている。このおかしみに、何か優雅なだけでないものを写しとりたい、描写したいという痕跡が残る、それだけのことがどうしてこんなに寂しいのだろう。季節を生きる側こそさまざまな顔を引き出されてしまう秋は創作むきの季節である。
