紙コップに紙くずを入れたそのときに紙コップも紙くずになった

三潴忠典『曲がらなければ伊勢まで行ける』

 

取り返しのつかなさがすごい。理論的にいけばきれいな紙くずであれば、それを入れた紙コップから紙くずをもう一度取り出せば、紙コップはふたたび使用できるものになるのではないかと思う。とはいえ、人間世界の暗黙のルールがそうはさせない。紙コップは紙くずが入った瞬間にごみとなる。紙くずがきれいだとかきたないとか言うこととは別次元で、紙くずが投入された時点において紙コップはすでにごみであり、なおかつごみから這い上がることがない。これが紙コップではなく紙の書類だったら、ということを考えてみる。なんと書類は紙くずと一緒にされても、必要な書類であれば拾い戻されてその価値は失われない。同じ紙であっても紙コップと書類では運命が違うことに気づいて、紙コップの宿命を感じずにはいられなくなるのである。

一見散文的な歌のように見えるけれど、「紙コップ」と「紙くず」の執拗な畳みかけには散文ならざる重量があるし、助詞のささやかな変化(「紙コップに紙くずを」が「紙コップも紙くずに」へ)によって紙コップの運命をまったくの逆地点に置いているところにも韻文の切れ味が現れている。また、一首の中心にある「そのときに」は一瞬というものをぺったりと貼り付けて不動のものとしており、散文の流れとは異なるものを示していると言える。

思えば世の中の現象というのはおおよそ取り返しのつかないものでできている。お皿を落として割ってしまえばもとには戻らず、髪を切ってしまったら、切った髪はふたたびくっつけようがない。自動販売機でジュースのボタンを押してしまえばとたんにジュースが出てきて押し戻すことができない。紙コップに紙くずを入れたときには、お皿を割ってしまったときのような取り返しのつかなさは自覚されることなく過ぎていくけれど、この歌に出会ってしまった読者は自覚していなかった取り返しのつかなさに焦点が合うよう顔面を固定される。固定された顔面にむけて紙コップが紙くずになっていく過程がきわめて丁寧にスローモーションで実演されていく。

 

緊張は浅く続くと腹が減る仕事の日にはお米を食べる

 

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