このあかるきそよぎの木々に帰るごとなれもあゆまむ夏の境を

『みずかありなむ』山中智恵子

二つの風景が同時に見えてくる。それも、単純に横にならべたという感じではない。対の屏風絵であれば記号的な共通があり、絵本の見開きであるならページを開いて、閉じたときにそれらの左右の絵はぴったりと物理的に重なり……奇妙だけれどもっとも近いと感じたのは、たとえば頭の前と後ろの両方に目があって、前を見ながら後ろを見ている、つまり二つの風景は連続した場所にあるのだけれど、本当は同時に見ることはできないはずのものを一度に感じている。360度のパノラマ写真のようなものである。

前方の風景では、風に吹かれて木々がそよいでいる。「この」と始められているので、目の前にみずみずしい林が広がっているよう。「そよぎの木々」という倒置によって、動詞的にそよいでいるというよりも、木々の性質として、風にそよぐことが運命づけられていると読み取ったほうが正しいのだろう。心のなかに心があるように、木の中に木はあり、たとえ風のない、また夏以外の季節にあったとしても、木は沈黙しつつひそかにそよいでいる。そのことがあかるさ、希望だと書かれている。

おそらく「木々に帰る」の箇所が、あたかも接続しているように見えてあやしい。蝶番ならねじが止まっておらずに外れている。本であれば綴じてあるはずのところが、実は連続した紙を折りたたんだようなもの。先に後方の風景を読んでおこう。呼びかけられた「なれ」が「夏の境」を歩もうとしている。林や森にそうではない場所(草地や田畑)との境界があるように、夏も境目をもっている。湖沼の外周や、波打ち際。大きめの水たまり。境界は地面や浜辺との境目にあるばかりでなく、空中との境目、つまり光の照り返す平面にも存在している。「夏の境」からはそういったきらめきの印象を受ける。そして、「帰るごと」とあるため、このきらめきは「そよぎの木々」に向かっても反射する。「なれ」の歩みは、水際を離れて木々の幹に接近していく。水しぶきのきらめく「夏」を離れて、「木々」の沈黙に向かって歩いていくところ。このあたりが、接続としてはそうすなおではないのだろう。言い換えれば、歩くことと、帰ることの二つが、一首の中に生じている。歩くことはもしかすると家から離れていくことを意味するかもしれないのに、同時に帰るほうにも足を向けなければならない。ただこの二重性は衝突や困惑をまねくものではない。なだらかな風景の連続、もしかすると、人はつねに歩きながらどこかへ帰ろうとしているのかもしれないという反転の気づき。写真には、技術や発明といった概念がともなっている。夏の日に撮影されたパノラマの風景に、ささやかな発見があり、その発見は意味を回収されて声と文体の力のみで示されていることを美しいと感じる。

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