青春とはためらうことを許される日々のことなりガロア思いて

『ダニー・ボーイ』貝澤駿一

連作の流れにもあるとおり、ガロアが決闘により絶命したことは知っていたが、弱冠二十歳であったとは知らなかった。数学的に偉大な理論のことは検索で調べてもすぐにはわからないだろうと思って、目を細めて読み飛ばしてしまったけれど、二十歳にして革命に関与しこうした成果を残した人がわずか二百年まえにいたということに驚いてしまう。人類のもちうる知識は漸増するいっぽう、平均寿命もいっぱんに伸びている傾向にあると思うため、時代が近いほど、成果が遅く発揮される確率が上がり、早熟の天才が生まれにくいのではないかと勝手に想像していたところ、こんなこともあるのだなと思う。

さて、ガロアが決闘により命を落としたという知識と、「青春とはためらうことを許される日々」という直感とは、この歌において連携している。この人の若い時期に浮かんだ想起の空を、瞬時過ぎ去ってゆく気流か鳥か飛行機。一首においてごくなめらかな論理が引かれ、そういうスピード感のある思惟がよぎっている。早世したガロアの連想から、続いて青春と〈ためらい〉について思いを巡らせる。歌のつくりはたしかにそうなっている。だが、これほど運命的な生涯を生きたガロアに、ためらうかどうか迷うほどの時間的な余裕があったのかと感じる。ガロアはためらったのだろうか。歌を書いているこの人も、そう疑ったのではないか。このなめらかな一首をもう一度読み解いてみよう。「青春とはためらうことを許される日々」、一度耳にすればもうこれ以上はないと思わせるようなフレーズである。ごく短い間に過ぎ去り、二度と還ってこない。そういう青春観がいっぱんにあるだろう。だがこのフレーズの中には、〈ためらい〉という概念が含まれる以上に、もう少し時間的な循環、足踏みするようなもどかしさもまた、にじんでいる。「とは」という言いかえ・転換の操作は歌の滞空時間をわずかに引き延ばす。「日々」と書かれれば、どこか同種の時間が淡々と刻まれていくわびしさ。「許される日々」には不可知の第三者的な視点が含まれており、〈許されない日々〉もまた別のところに置かれているようだが、その存在にいたってはまだ手に取ることすらできずほとんど透明である。この一首も、迷わず書かれたようでありながら、迷いと屈折がある。ためらうことを許しを得ながら、ためらいについて書くことは、たとえば水面やガラスといった抵抗・反射の弱い物質をわざわざ絵に描くような困難をともなうだろう。そうした困難がこの歌のもどかしさとなっている。だがそのまなざしの一点に、ガロアという異国の他者があり、彼の存在が歌に対する風穴となる。〈ためらい〉の具体的なすがたはここで明らかにならないけれど(いや具体化されないほうが普通だろう)、友だちとか身近な人とは違っても他者という存在に背を預けることができる、これは悩ましい青春にあって、頼むべき姿勢だと思う。ここで大いにためらい悩むことを許しているのは、ガロアだったのかもしれない。

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