藤井フミヤももうすぐおじいちゃんになるベテルギウスの死にし光に

貝澤駿一『ダニー・ボーイ』

 

昨日の山木さんの回に引き続き『ダニー・ボーイ』から一首。ベテルギウスとはオリオン座にある恒星のことだが、この星が今生きているのか死んでいるのか確かなことは分からないらしい。あまりにも遠い距離にあるため星の生死を判別できる光がこちらに届くまで600年以上かかるのだという。ベテルギウスの寿命はもう尽きているかもしれないし、もうすぐ尽きるのかもしれない。いずれにしても死に体であることに変わりはなく「ベテルギウスの死にし光」はその辺りのニュアンスが込められた表現だろう。そうだとしてもこちら側からすればベテルギウスは依然としてひとつの恒星の姿を保って存在している。果てしない時差である。

藤井フミヤは元チェッカーズのリードボーカルである。「藤井フミヤ」と「おじいちゃん」とは次元の異なる言葉のようにも思うが、念のためインターネットで確認したら今年で63歳になっていて驚く。時の過ぎるはやさにも、藤井フミヤと聞いて脳裡によぎるイメージの若さにも驚くのだけれど、「おじいちゃん」という言葉の破壊力にも目を瞠った。「藤井フミヤ」と「63歳」ではイメージの上で藤井フミヤが負けることはないのだが、「藤井フミヤ」と「おじいちゃん」だとおじいちゃんの強さがかなり際立ってくる。とはいえ、強烈な現実を「おじいちゃん」によって突き付けられてなお藤井フミヤのイメージは若いころのままであり、ベテルギウスの把握に時差があるのと同様に藤井フミヤの把握にも時差がある。はるか彼方の星ではなく人間であっても、ある人のなかでその存在が巨大であれば距離の遠近にかかわらず時差と呼ぶべきものが発生する。

 

グラタンが好物だよねといつもいう母の記憶は更新されない

 

藤井フミヤの歌の二首前にある作品である。鮮烈な記憶は現実を凌駕する。子どもが大人になり、その味覚が変化してもグラタンが好きだった子どものころのイメージが現実にまとわりついて離れない。これはおそらく母にとっても自身がもっとも輝いていたころの記憶と重なっているのではないかと思う。人の目の焦点は輝きに合うようにできている。そしてそれは往々にして現在ではなく過去のある地点、もっとも輝きをもっていた一地点であるのだということをこれらの歌は教えてくれる。藤井フミヤは孫がいてもおかしくない年齢となっているけれど、それでも目をつむったときに浮かんでくるのはチェッカーズの藤井フミヤである。ベテルギウスの光と同じくいくつになってもその光芒を藤井フミヤだと思いつづけるはずである。

 

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