『これからの友情』丸田洋渡
無償のものに対して怯えがある。小さいぬいぐるみや子猫、みたいなものを触っているときに、ぬいぐるみや子猫はただそこにあるだけなのに、手のひらから心へ直結する回路があるとたしかに感じられて心が端からぐずぐず溶かされていく感じ。私はぬいぐるみや子猫に対してその瞬間に代償を払っているわけではない。無償の熱や柔らかさで心が変化を受けることが怖い。ほかにも、投入した100円が丁寧に返ってくるコインロッカーなんかも怖い。受けた恩義に対しては、多少見合わなくても何かを払わせてくれるほうがはるかに安心する。
「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う/『シンジケート』穂村弘
短歌は代償を差し出すほうの文芸なのではないか。少なくとも定型という恩義に対して、言葉という対価を差し出している。定型にひとたびセットされた言葉は、自らの身を離れてぐるぐると自動回転を始める。とても小さな渦であることもあれば、大掛かりな海洋循環のようになることがあるかもしれないけれど、どちらでも取り返しがつかない。だから、言葉を定型というロッカーに渡してしまうことは安心できる。それでも。
掲出歌は〈優しさ〉の一例として「取り返す」ことを挙げている。教室でほかの人に取られてしまった文房具を取り返すとか、過ぎた時間を取り返すような行動を起こしてくれる。そのような〈優しさ〉がある。さらには、私が思うような、一度は納得して支払った何かを支払わなくてもよいのだと諫めるようにわざわざ取り返しに行くこともあるのかもしれない。これらの〈優しさ〉は必ずしも受け取る側の気持ちそのものとはならない。抵抗はゼロではない。小さくてもどこかに越権があり、壁を乗り越えて侵襲してくるような状態が好意である。短歌に対して言葉をいちずに手渡してきたことに比べて、掲出歌では新しい関係性、言葉がふたたび手元へ還ってくるような導線が設定されているように見える。それは安定した個の世界に始まるのではなく、めにみえない、他者から導かれているもの。氷水に浮かぶ氷は水とはあきらかに異質であるいっぽう、時がたてば水に変わって同化するものだけれども、それが取り返しのつかなさをダイレクトに模したものだとは思わない。むしろ、触れたままでは凍傷を負ってしまうような、冷たい緊張感がしんと結句に残る。「ほとんどが氷」であるから触れるにも勇気がいるのだ。友情に果たす勇気の役割、がここに書かれ、短歌にも新しい風穴をあけている。
