「来年も揚げましょう」って先輩に畳んだ凧を渡して帰る

なべとびすこ『デデバグ』

 

日々はひとつらなりのノリとともにあって、それは良いノリ、悪いノリによって上下動をしたりしながら続いていく。おそらくは凧揚げをする少し前の日に約束をして、仲の良い先輩と落ち合って凧を揚げたのだと想像する。そして楽しかったのだと思う。だから凧揚げが終わるや否や次の約束をしたのだろう。「畳んだ凧」は次も今日と同じこの凧を揚げるのだという気持ちが畳ませた凧で、歌のなかではごく短く使われたこの「畳んだ」に、思いのほかの質量が籠められている。約束には口約束から文書をもって交わす契約まで濃淡があってその幅のなかのどれもが約束と呼ばれるわけだが、この歌の約束は口約束だけれど楽しかった凧揚げを終えた直後のノリが「来年も揚げましょう」を「(絶対に)来年も揚げましょう」へと約束濃度を契約以上に高めたはずである。先輩の声は文字となって表れていない。けれど「おう、来年もやろう」という返事は当然のように歌から聞こえてくる。

だとしても、その出来事を歌にすることはひとつらなりのノリを切り離していくことにつながる。凧揚げの一日の前後にあったノリという運動体はすーっと静かになり約束の濃度というか質量というかは「来年」のほうに移動していく。ノリのなかでは明日くらいの距離にあったはずの来年がぐんぐん遠のいて365日先の距離へ戻っていく。来年とは、見えない明日の365回の積み重ねの先にあるから、そこにはもう「絶対」はない。動かなくなったノリのなかで、絶対の約束は不確実な約束へと衰えていく。それとは逆に歌として切り取られた凧揚げの一日のなかではノリがきちんとうごめいている。こうして、ノリの外で約束が不確実なものであることとノリのなかで約束が絶対のものであることがこすれあう。その瞬間以外において来年も凧揚げをするという約束が不確実となることで、その瞬間、そのときの約束の絶対性に火がついたような熱さが宿る。瞬間のほんとうは瞬間を切り取るかぎり、そこにそのまま残るのだということ。また、残ることと引き換えにそこから出られないのだということ。こちらのこころもこすられるような歌だと思う。

 

クリスタルガイザー開けるとき濡れて乾いたころに君は帰った

 

 

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