『天国さよなら』藤宮若菜
うつくしい三段跳びが目に浮かぶ。初句の「かえったよ、」として行く場所+帰る場所という少なくとも二か所以上の地点が設定されることで文体における運動がうまれ、「わたしをうんでくれた日に、」では前方に向かってさらに大きく蹴りだされ、これまで生きてきた日々が周囲の景色としてつぎつぎと背後へ流れていく。三歩目はがらがらと大きな音のするサッシをめいっぱい引いて、ベランダに置かれたサンダルにつま先を差し入れるさま。着地はさっぱりとしている。一階ではないように見える。中層や高層階なら相応の景色にめぐまれるだろうし、低層なら向かいの家がすぐに迫っているかもしれない。この歌では初句の〈帰ること〉の連想を経て生誕の場面へ閉じていくのではなく、ベランダで夜風を受けながら、一種の開放感をかみしめている。生前へ戻ってゆくための死、生の根底にある元栓としての死ではなく、あくまでも生の続いてきた、そして続いてゆくひとつの道程をまっすぐに見つめている歌だと思う。
たぶん、人を好きになっている間はその人の居場所だけが家であり、それ以外の場面がすべて違う世界の場所のように感じられる。この人は帰るための家を探し、この歌で「かえった」という実感を得た。帰った家のベランダには長く積み重なった喫煙の痕跡がある。たばこは体に有害であるが、言い換えるとそれを口にしている数分の間は、確実に生が続いている。嗜好性という意味でもそうだし、将来に対していま現在の結果を送り込んでいることで、少なくともいまここでは死ななくてよい、とかならず言い切れるのである。このベランダに吸い殻が積もっているのは死を想起させるためではなく、生きてきた時間の積み重ねということであって。吸い殻がどんなに雨風を受けてしなびていても、日めくりカレンダーの済んだページのように日々の証として確固と残り続けている。「わたしをうんでくれた」ものは誰だろう。まずは生みの母というものがあるだろう。また、人を好きになることは、その人を思うために、自分のエゴや意思が発動しているということだから。命として生まれた日の生誕のまぶしさがあり、人を思うことで自分が生まれるという自我のエッセンスが、「うんでくれた日に」「ベランダに」という助詞「に」の重ね掛けによって記されている。吸い殻の溢れるベランダで、この人は生まれ、日々を過ごしている。家に帰ればもうそれ以上に帰る家はないのだという淋しさはあるだろう。ただ淋しさにいくら苛まれるようでも、「うんでくれた」という表現には、生に対する慈悲がにじんでいる。このときこの人は、光へむかってもう一度、突き進んだといえるのではないか。
ねえだれもわるくないよね だってこんなにも地球はきみの匂いがするよ
