メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

『空間における殺人の再現』永井亘

破綻していない自然な馬の世界というものが、どこかにあるのだろうと予想される。草原のような、天上のような場所で。その馬はもう目に見える馬の形、あのすらりとした四本の足と鬣と艶やかな尾で作られた形はしていないかもしれない。水に洗われた馬のたましいがぴかぴかに光っている場所がある。以前に読んだときに気づかなかったのだけれど、「殺人の再現」には塚本の作った世界を生き直す空間という意味も込められているのだろう。

掲出歌も宣言を行っている。メリーゴーランドは上空から見ると完全な円の形で、きらびやかな素材や電飾で縁どられている。ときには〈シンデレラ〉のような婚礼という大団円をモチーフとする。短歌の世界に置き換えれば「メリーゴーランド」で8音ほども使ってそれだけで大掛かりな印象を与えることになる。しかしかずかずの作品でも明らかであるように、人気(ひとけ)のない遊園地や廃園で、もう動かなくなった遊具の象徴としての印象もかならず付きまとっている。メリーゴーランドは、始まりも終わりもないのに終わりの始まりであるかのような、純粋な物語そのものをつむぐための装置である。この装置には命あるほんものの馬を使うわけにはいかない。そこにある馬はまばたきをせず、前足を掲げたまま固まっている。胴の中央を太い柱が貫き、馬を支えるとともに乗客がつかまるための支柱ともなっている。これはなるほど不自然で、ただ不自然な物語のなかでしかいまや人は生きることができない。その物語は安全だからである。自然な物語、というものがどこかにあったとして、その物語は危険なのではないかという印象がなぜかはたらく。いま現在の人間が大自然を備えなくわたってゆくのが事実上不可能であるように、不自然な物語は安全な生活に役立っている。この人は、メリーゴーランドにいま乗っているわけではない。完全な円を描く柵の外側に立ち、メリーゴーランドを微笑ましく眺めている。安全な物語の微笑ましさがある。ここでいま一種のスタンスを取る、という宣言を行っている歌であるのだが。馬の中心に刺さった柱にまるで自身も貫かれているような、どこか、、、真摯な痛ましさがある。風景となるものは不動の不自然な馬であるのだが、電飾に照らされながら微笑みを作ること、その笑みをくっきりと見せていることが歌のハイライトである。仮に遠まきであっても痛みを避けられない、それが今日スタンスを取るということなのだと思う。

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前回投稿で藤宮若菜さんの歌集名を誤っておりましたので修正いたしました。
申し訳ありません。

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