風のなかにいるということだけわかる気がするのだけれど気のせい

『無数を振り切っていけ』馬場めぐみ

日々のクオリアを書いて十か月がたち、その間に訪れた変化として、これまでのような生きづらさを感じにくくなった。生きづらさというか、自分の手で口を覆っているような、息苦しさ……文章を続けて書くことの効用であり副作用なのだろうか、いままで創作の源泉となっていた感情の中心がなにか見えづらくなって、まるきり散逸したわけではないにせよ境のぼやけた濃淡だけが無秩序に領地を広げているという感じ。代わって生まれたての両足がほやほやの構造や論理で支えられている。漢方みたいに少しずつ体質が変わっている。これは連載が終わったら、いずれもとに戻ることのできる可逆的な変化なのだろうか。

『無数を振り切っていけ』には多く感情の中心から発せられた言葉があり、ただそれは叫びや悲鳴のような断片的なものではない。感情の断片ではなく、あくまで感情の中心でなければ出てこない言葉があふれている。中心とは、もっとも密度/濃度が濃い場所であり、思索の極致である。

花びらとしての指先がはためき これでさよならだとしてもいい
永遠にポップソングは救いだと言いたい真冬のジンジャーエール
生きづらさとは水飴のような毒 明日もあなたもわたしもいきて

どうせだれかと似通っていて、だから半身だけ角度をそらせばやはりほかのだれかと目が合ってしまう、そういう性質をもつのが私や馬場の世代の「生きづらさ」だと勝手に思っている。だれにでも通じていて、それなのに馬場の作品がだれにも似ていないと感じる。それはこの作品がまぎれなくある人の感情の中心から、その水面からソーダの泡のように浮かんでくるからだ。「さよならだとしてもいい」はポップソングのメロディと完璧に同期することもできるし、ある個人が苦い思索のすえにくだした決断にもなる。こんなにも声だけで重なりあいたいのに、その両者の隔たりは思いがけず遠くて、救いのようなメロディにどうにか追いつくため胸が絞られる、その切ない努力のはてにポップソングから舞い散る「花びら」が「指先」に宿る。「救いだと言いたい」まで言わなければ、泡はもう持ちこたえないのかもしれない。これはやはり努力や願いに貫かれた光であるだろう。

掲出歌で「気がする」と「気のせい」は同じことなのだろうか。なにもわからない、ということだけがこの人にはわかっている。ならばそれは何も意味しないのかといえば、まるで違う。「気がする」と「気のせい」のほんのわずかな、微々たる差異が、ページを一枚めくったようにぎっしりと感情の中心を占めている。「気がする」は内面の肯定であって、「気のせい」は外との比較を前提とした否定である。傷ついても最後に外を向いて目を開くこと。こんなふうな言葉になったのは「日々のクオリア」を書いてきたおかげだけれど、もう少しだけ、この歌集の中心にもまれたままでいたいとも思う。癒しや回避というより、かすかな自立のための光を感じられそうで。

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