三果五果梢にゆらぐ青胡桃夏逝く空のいろひ澄みたり

『雪前雪後』木俣修

ずっとこういう歌が好きだったことを思い出した。「青」はどこか特別な色彩である。対応する「赤」が認識の中心を占めてはっきりと主張するのに対し、「青」はいっぱんに控えめで物静かな色だととらえられている。しかし、海も空も、あの控えめな青色で隅々まで塗り上げられていて、一度でも目にすればもう忘れることができない。ふつうにこの世界を行き来しているかぎり、見ることのできる中ではもっとも大きな色なのかもしれない。

そういう全体がある中で、この歌では青色がぎゅっとひとまとまりに固まっている。木の枝にいくつかの実が固まって生っているところ。青というか、よくある言い方をすれば厳密には緑色をした胡桃の実であるだろう。それでも、あの空や海の青色が頭を離れることはない。決して手に届かず、とらえられない、そのとき自分の身体や境界が疑わしく心もとなくなってゆき、とても淋しいのだけれど何かそのまま心を委ねきってしまいたくなるような感じ。ゆえにこの歌には人気(ひとけ)が感じられない。身の回りが息苦しく感じられるときほど、あの淋しさというか自由に焦がれる。定型というある種の息苦しさにとって、青は永遠に叶わない願いのようなものだ。空に手はとどかなくとも、青い胡桃の実には、手を伸ばせばぎりぎり届くのかもしれない。ぎりぎりの、われをわすれた切望のようなものが、「三果五果梢」「青胡桃夏逝」という堅い表記によって凝縮した形に表現され、視線をひきつけて離さない。その表記が理解されほどけたときに、胡桃と空にそれぞれ詰め込まれていた青色が瞬時解き放たれ、混ざり合いながら視野いっぱいにひろがる。

意味を知らず、三つか五つくらいの実が生っているところを想像したのだけれど、「三果」も「五果」も中国や東洋思想(五行思想)の流れにおいて伝統的にいくつかの果物のことを指しているそうだ。そう聞けばたちまち、青い空のなかに桃や柘榴や杏や李といったなまめかしい色合いが浮かんでくる。夏は終わりつつあり、命を静かに枯れさせようとしているのに。はっきりとしない対比、しかしこの世のどこからたどってもかならずたどり着く因果のようなものが、背景にうっすらと漂っている。

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