誰も見ぬ笑顔をつくり堪えがたく振り仰ぎみる林の芽吹き

『紫陽花や杏子あやめの雨の日日』田江岑子

今回まで続けます。前回の『われやみちのく』が第四歌集、『紫陽花や』が第五歌集にあたるとのこと。こちらは大判でところどころ花の挿画が入っている。※

これ以前の作品に比べいくらか具体性が増したような気がして、より現実を転写したような表現が多い。のだけれど、どれが事実であるということもないのだろう。東北の風土・事物、父恋と母恋といったテーマが共通している。瞬時の感動が自身の感情を飛び出して咄嗟の文章表現になるということがあるだろうが、いくらか時間をかけて何かに没入していくとき、地球の海にふいに生命が宿ってしまったように、意識せずとも形になってしまっていることもあるだろう。掲出歌の時空では、そういった没入によって何かが変化してしまっているのではないかと思う。

どう見てもこれは泣き顔だ、となぜ感じるのだろうか。外形上は能面のように、角度によって泣いているとも笑っているとも見えるのだと思う。実際にははれやかな笑顔であるだろう。そして歌にあるこの人の心のなかに、読者は勝手に涙と感傷を見出す。「誰も見ぬ笑顔」は本当に誰も見ていないだけなのだ。ただ、作り笑顔であること、その堪えがたさ、などが同時に書き込まれていることで、とてもその内面を覗き込みたくなるような、いっそたまらず覗いてしまってそのうえきまり悪くなっているような、居心地の悪さが読者に訪れている。いくつかの位相における微妙なズレが、泣き顔という印象をもたらし、読者のほうこそ何かわだかまったような気分になる。この人が歌の中で終始笑っていられるのは、読者よりさきにどこかへ没入し、すでにその場で長い時間を過ごしているからなのだと思う。じょじょに再生スピードを遅くしていくと、動画はいつか写真になるだろう。経過を失いつつある時間のなかで、笑顔だけが忽然と残り続けている。対比されているのは芽吹きはじめる早春の林、その梢であるけれど、少しずつ遅くなっていく時間の力を受けて、生命の予感にあふれているはずの木の芽もまた硬直しかけている。この人が生きている結晶化した時間が、結句の次に残るものである。

鬼になれ鬼になれとぞかなしかり夕日に額をきしませてゆく
後ずさりしてゆく顔あり走り来よ今日の夕日は汝のものだから
ひとひとり心に住まわす隈はあれ天も地もなく曠野吹雪ける
雪の原 金にかがやく霊柩車たちまち消えぬ没り日も消えぬ
紫陽花や杏子あんずあやめの雨の日日家の中は何もかも留守

取り急ぎ多めに引用する。何かがあったり、なかったり、明滅している中に、確実にひとつながりのたしかな世界があることへの興味が尽きない。

※本書に限らないと思うのですが、このごろネット検索から古書を探そうとすると多数フィッシングサイトが出てくるので気を付けてください。

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