榊󠄀原紘『koro』
「おんぼろ」という言葉を久しぶりに見た気がする。この「おん」にはもともと何かの意味があったのだろうけれど、そういう歴史的事実とは別に「ぼろ」とダイレクトに行く手前のワンクッションとしてわたしは「おん」を受け取っているのだなあとあらためて感じる。「おんぼろ」には「御」のニュアンスも取り込んだワンクッションがあって、「ぼろ」に比べればそうとうにまろやかさが増す。そういうカメラで写真を撮ってほしいとお願いをしているものの、歌のなかにはお願いをした相手の気配はないに等しい。気配を持っているのはカメラであり、運河であり、橋であり、その影である。カメラがおんぼろだというのは一首の言葉のつながりから当然のことなのだが、この初句は歌全体のニュアンスを統べていくような力がある。初句はどんな初句でもその後に続く言葉の流れを左右する重要なものであるわけだけれど、この歌の初句はことのほか歌の末尾まで効いているように思う。たとえば運河。運河によってもたらされるイメージはさまざまにあるなか「おんぼろ」が効いていることでかつて隆盛をほこった、今は使われることのなくなったものというイメージが炙りだされてくる。この橋も新しい橋という感じが自然と後退し、ところどころ錆の浮きでたような橋が思われ、水に浮かぶ影も地上の影とは違ってよれよれとしているだろう。「おんぼろ」は無理なく一首全体にゆきわたっている。すべてが「おんぼろ」に従う無理のなさは気配のない相手にも「わたし」にもおそらくはゆきわたっているはずである。役目を終えたものたちしかいない光景が広がっているのは、役目を終えてなおこのものたちが舞台の上をしずかに在り続けているからだ。
在り続けることは在ること以上に痛々しく残酷なことなのだと思う。だから「撮って。」という願いが湧いたのではないかという気がしてくる。おんぼろのカメラはもう一度シャッター音をひらめかせ、運河や橋や影は被写体という役割を与えられる。役割を与えるものには付与者という役割が降ってくる。ただ、それが在り続けているものたちにとっての正解かはだれも知らない。くたびれた運河の水のよどみや汚れた橋、黒くゆらぐ水の上の影はいわばモノクロームの世界である。カメラそのものも黒と銀の組み立てによってかたちづくられたモノクロの存在であるし、おんぼろのカメラのフィルムが現像されて出てくる写真もモノクロだろう。撮ることが色をもたらさないだろう世界線でそれでも写真を撮ろうとすること、また、この歌の世界線では「撮って。」の願いは絶対に完了することなく、永遠に願いのまま在り続けることを思うと、ぐっと胸が塞がれる。そしてこの胸が塞がれたがっていた胸だったのではないか、ということに気づかされる。
葉脈のような雨降る 生きてさえいればやり直せないと分かる
